醫王山毛越寺。天台宗別格本山、世界遺産
毛越寺の概要
天台宗寺院の毛越寺は、醫王山と号します。毛越寺は、嘉祥3年(850)慈覺大師円仁が白鹿に導かれて当地を訪れ嘉祥寺を創建、貞観11年(869)には勅願寺となったといいます。その後勅命により藤原清衡が圓隆寺を創建、毛越寺は二代基衡が建立したといいます。藤原秀衡の代には堂塔40超、坊舎500超を備えた大寺院だったといいます。藤原泰衡が滅んだ後も源頼朝から武門祈願寺に命じらたものの、嘉禄2年(1226)に罹災し、圓隆寺をはじめ講堂、常行堂、法華堂など諸堂宇を焼失してしまいました。往時の伽藍は焼失したものの、堂宇・廻廊の基壇や礎石・土塁などが残されていることから国の特別名勝・特別史跡に指定され、平成23年(2011)には「平泉ー仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」として世界文化遺産に登録されています。
山号 | 醫王山 |
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院号 | - |
寺号 | 毛越寺 |
住所 | 平泉町字大沢48-2 |
宗派 | 天台宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
毛越寺の縁起
毛越寺は、嘉祥3年(850)慈覺大師円仁が白鹿に導かれて当地を訪れ嘉祥寺を創建、貞観11年(869)には勅願寺となったといいます。その後勅命により藤原清衡が圓隆寺を創建、毛越寺は二代基衡が建立したといいます。藤原秀衡の代には堂塔40超、坊舎500超を備えた大寺院だったといいます。藤原泰衡が滅んだ後も源頼朝から武門祈願寺に命じらたものの、嘉禄2年(1226)に罹災し、圓隆寺をはじめ講堂、常行堂、法華堂など諸堂宇を焼失してしまいました。その後歴代領主からの寄付により寺観を維持してきたといいます。
「岩手県町村誌」による毛越寺の縁起
(平泉村)
▲醫王山毛越寺金剛王院
人皇五十四代仁明天皇嘉祥三年慈覺大師の開基なり五十五代清和天皇の貞観十一年十月北門鎮守の御願寺たるべき詔勅あり其落ち戦亂相つぎ堂舎僧坊破壊に屬せるを以て七十三代堀川天皇長治中藤原清衡に寺堂再興の勅命あり凡そ十三年にして七堂伽藍は落成し、七十四代鳥羽天皇更に勅使左大臣少辨當仁朝臣をして圓隆寺の宣下ありて勅願寺となし給ふ、清衡朝臣若干の寺領を寄附し經營す、秀衡に至り益々堂舎坊宇を増營し堂塔四十餘宇禅坊五百餘棟全く具はり實に海内屈指の偉觀なりき、文治五年泰衡沒落後源賴朝巡覧して武門祈願寺の台命あり且寺領安堵の壁書を下附せらる、承元年中幕府更に當寺修營の命を下して舊觀を保持す、(中略)天正十九年豊臣秀次九戸凱旋の時舊址を巡覧し衆徒還住すべきの御教書を賜はり寺禄若干を寄附せらる、後伊達政宗受封の後世々堂宇を修理せらる明治九年車駕東巡の際臨幸あらせらる、誠に一山の幸福といふべし。(「岩手県町村誌」より)
毛越寺栞による毛越寺の縁起
白鹿伝説
寺伝によると嘉祥三年(八五〇)慈覚大師が東北巡遊のおり、この地にさしかかると、一面霧に覆われ、一歩も前に進めなくなりました。
ふと足元を見ると、地面に点々と白鹿の毛が落ちておりました。大師は不思議に思いその毛をたどると、前方に白鹿がうずくまっておりました。大師が近づくと、白鹿は姿をかき消し、やがてどこからともなく、一人の白髪の老人が現われ、この地に堂宇を建立して霊場にせよと告げました。
大師は、この老人こそ薬師如来の化身と感じ、一宇の堂を建立し、嘉祥寺と号しました。これが毛越寺の起こりとされます。(毛越寺栞より)
毛越寺所蔵の文化財
- 毛越寺境内附鎮守社跡・毛越寺庭園(国指定特別名勝・特別史跡)
毛越寺境内附鎮守社跡・毛越寺庭園
毛越寺は奥州藤原氏二代基衡の建立です。
「吾妻鏡」によれば全盛期には、金堂(本堂)円隆寺を中心に堂塔四十余宇、禅坊五百余宇が建ちならび、伽藍の荘厳さは吾麻無双と評されました。
円隆寺、講堂、常行堂、法華堂などからなる伽藍の背後には塔山がそびえ、前面には大泉が池が広がります。
当時の建物はすべてを失っていますが、基壇や礎石は良好に跡をとどめ伽藍の旧状をうかがい知ることができることから、特別史跡に指定されています。
大泉が池を中心とする毛越寺庭園は、国を代表する平安時代の「浄土庭園」として名高く、特別名勝に指定されています。(境内掲示より)
毛越寺の周辺図
参考資料
- 「盛岡の寺院」(平泉町仏教会)