達谷窟毘沙門堂西光寺。岩手県平泉町平泉北沢にある天台宗寺院

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達谷窟毘沙門堂西光寺。岩手県平泉町平泉北沢にある天台宗寺院

達谷窟毘沙門堂西光寺の概要

天台宗寺院の西光寺は、眞鏡山と号し、達谷窟毘沙門堂で著名です。達谷窟毘沙門堂西光寺は、延暦20年(801)に惡路王を征伐した征夷大将軍坂上田村麻呂が、惡路王の拠点だった当地に毘沙門堂を創建、翌年に圓珍僧都を開基として別当西光寺を創建したといいます。前九年後三年の役に際しては源頼義公・義家が寺領を寄進、奥州藤原氏初代清衡公・二代基衡公は七堂伽藍を建立、その後も歴代武将の崇敬が厚かったといいます。東北三十六不動尊霊場23番です。

達谷窟毘沙門堂西光寺
達谷窟毘沙門堂西光寺の概要
山号 眞鏡山
院号 -
寺号 西光寺
住所 平泉町平泉北沢16
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 -



達谷窟毘沙門堂西光寺の縁起

達谷窟毘沙門堂西光寺は、延暦20年(801)に惡路王を征伐した征夷大将軍坂上田村麻呂が、惡路王の拠点だった当地に毘沙門堂を創建、翌年に圓珍僧都を開基として別当西光寺を創建したといいます。前九年後三年の役に際しては源頼義公・義家が寺領を寄進、奥州藤原氏初代清衡公・二代基衡公は七堂伽藍を建立、その後も歴代武将の崇敬が厚かったといいます。

「岩手県町村誌」による達谷窟毘沙門堂西光寺の縁起

(平泉村)
▲眞鏡山西光寺
天台宗(俗に達谷窟といふ)大同二年圓珍僧都の開基にして即ち毘沙門堂の本坊とす本堂は田村将軍の建立にして後藤原清衡以下三世の造立亦少からず、堂塔僧坊広壮なりしが天正年間悉く兵燹に罹り偶々本堂のみ岩窟に據りしかば餘焔を免るゝを得たりと雖も後頽廃して今は改造に係れり。
因に達谷窟は往昔夷酋惡路王等の根塞なりしと傳ふ。
▲毘沙門堂
人皇五十代桓武天皇の延暦二十年征夷大将軍坂上田村麿東夷平治祈願成就の爲め山城國鞍馬寺を模し九間四面の堂を創設百八體の多門天を安置し鎮國の寺社となす、堂は岩洞に長閣を構ひ高サ三丈長サ九間廣サ七間なり。
▲岩面大佛
堂の左側岩面に一大佛像を彫刻す、古来其縁由を詳にせす或は曰く源義家弭を以て之を刻せりとも傳ふ。(「岩手県町村誌」より)

境内掲示による達谷窟毘沙門堂の縁起

達谷窟毘沙門堂縁起
約そ千二百年の昔、惡路王・赤頭・高丸等の蝦夷がこの窟に塞を構え、良民を苦しめ女子供を掠める等乱暴な振舞が多く、国府もこれを抑える事が出来なくなった。そこで人皇五十代桓武天皇は坂上田村麿公を征夷大将軍に命じ、蝦夷征伐の勅を下された。対する惡路王等は達谷窟より三千余の賊徒を率い駿河国清見関まで進んだが、大将軍が京都を発するの報を聞くと、武威を恐れ窟に引き返し守を固めた。延暦二十年(八〇一年)大将軍は窟に籠る蝦夷を激戦の末打ち破り、惡路王・赤頭・高丸の首を刎ね、遂に蝦夷を平定した。大将軍は、戦勝は毘沙門天の御加護と感じ、その御礼に京の清水の舞台造を模ねて九間四面の精舎を建て、百八躰の毘沙門天を祀り、国を鎮める祈願所とし窟毘沙門堂と名付けた。そして延暦二十一年(八〇二年)には別當寺として達谷西光寺を創建し、奥眞上人を開基として東西三十余さと、南北二十余さとの広大な寺領を定めた。
降って前九年後三年の役の折には源頼義公・義家公が戦勝祈願の為寺領を寄進し、奥州藤原氏初代清衡公・二代基衡公が七堂伽藍を建立したと伝えられる。文治五年(一一八九年)源頼朝公が奥州合戦の帰路、毘沙門堂に参詣され、その模様が「吾妻鏡」に記されている。中世には七郡の太守葛西家の尊崇厚く、延徳二年(一四九〇年)の大火で焼失するが、直ちに再建された。戦国時代には東山の長坂家より別當が赴き、多くの衆徒を擁したが、天正の兵火に罹り、岩に守られた毘沙門堂を除き、塔堂樓門悉く焼失した。慶長二〇年(一六一五年)伊達政宗公により毘沙門堂は建て直され、爾来伊達家の祈願寺として寺領を寄進されていた。
昭和二十一年隣家から出火。御本尊以下二十数躰を救い出したが毘沙門堂は全焼した。昭和三十六年に再建された現堂は創建以来五代目となる。内陣の奥に慶長二十年伊達家寄進の厨子を安置し、慈覺大師作と伝える御本尊・吉祥天・善膩師童子を秘佛として収める。次の開扉は平成五十四年となる。
毘沙門天は虎年の守本尊である。また軍神であり悪鬼を拂い、財宝・官位・智恵・寿命等の福を招き、諸々の願が叶うとされ、毘沙門講を結び参詣する人々が後を断たない。毎月三日の月例祭・春秋の大祭を始め多くの祭事があるが、特に正月一日から八日迄行われる修正會は慈覺大師から恵海大和尚が伝え、千余年も続く神事である。(境内掲示より)


達谷窟について

達谷窟
平泉中心部の南西約6km、太田川北岸の東西長約150m、最大標高差約35mの断崖に掘られた洞窟が達谷窟です。窟の前面には懸崖造の毘沙門堂があり、南面して中島を伴う池(蝦蟇ヶ池)が配置されます。また、毘沙門堂西側の岩面に磨崖仏が刻まれています。
『吾妻鏡』によると、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼして鎌倉へ帰還のおり、ここに立ち寄り別当寺の達谷西光寺の寺領を安堵したことが記されています。
発掘調査の結果、平泉最盛期(12世紀)にはすでに毘沙門堂の前面に池が存在していたことが確認されています。
平泉はもとより、東北地方における仏教信仰の実態を理解する上でも欠くことのできない重要な遺跡として、史跡に指定されています。(境内掲示より)

達谷窟と田村信仰について

征夷大将軍坂上田村麿公東征の靈蹟で、殺生禁斷地、國指定史蹟達谷窟に關する最古の記録は『吾妻鏡』文治五年(一一八九)九月廿八日の条であり、これ以降『田村三代記』『諏訪大明神繪詞』『鹿嶋合戰』『神道集』等の中世文學や藝能の他、日本國中の社寺縁起にこの窟の名が記され、古来奥刕で最も著名な窟であり、また窟毘沙門堂は岩窟に堂宇を構える窟堂としては、今なほ日本一の規模を誇る大堂であります。
御創建の大将軍に於かれましては『公卿補任』に「毘沙門天ノ化身来タリテ我國ヲ護ル」と記されてゐる様に、大将軍は神であり、その本地を毘沙門天と見做す田村信仰發祥の靈場として、貴賤の尊崇を集めて参りました。
窟毘沙門堂内陣の扉の奥に祀られる御本尊様は、慈覺大師が毘沙門天の化身である田村麿公の御貌を模して刻し給ふ攸の秘佛であります。それ故に毘沙門様に抱かれた床下の廣い空間は往古より守護不入とされ、諸國行脚の聖や山伏、乞食等の憩める安住の宿として、また合戰に敗れた武士が暫し身を隠し、而る後生まれ變はつて往く再生の場として、さらには御先祖様の靈魂があの世から歸り来て集ふ聖なる所として、現在も人の立ち入る事を許さぬ禁足地とされており、その信仰は「現世で毘沙門様を拝めば災に遭ふことなく、極楽往生の際は毘沙門様が擁護し給ふ」と言はれる程、隆盛を極めました。
三つの鳥居を潜り達谷窟毘沙門堂の御神域及び別當の達谷西光寺境内に座す諸佛諸神に御詣りすれば、延暦廿年の創建以来、今も變はらぬ田村信仰の佇ひを、きつと懐かしく感じられることてせう。(境内掲示より)

岩面大佛について

毘沙門堂西方の約そ十丈(約三十三m)にも及ぶ大岩壁に刻まれた磨崖佛は、前九年後三年の役で亡くなった敵味方の諸霊を供養する為に陸奥守源義家公が馬上より弓弰を以って彫り付けたと伝えられている。この大佛は高さ五十五尺(約十六・五m)、顔のながさ十二尺(約三・六m)肩巾三十三尺(約九・九m)全国で五指に入る大像で、「北限の磨崖佛」として名高い。元禄九年(一六九六年)の記録に「大日之尊體」(岩大日)その後岩大佛と記され、現在は岩面大佛と呼ばれている。
猶、尊名は岩大日の記録から大日如来とする考えもあるが、拙寺では昔から阿彌陀佛の名号を唱えており、戦死者追善の伝説からも阿彌陀如来とするのが正しいと思われる。その証左として岩面大佛の下に立つ「文保の古碑」(一三一七年)には阿彌陀の種子であるキリークが刻まれている。明治二十九年に胸から下が地震により崩落し、現在も磨滅が進んでおり早急は保護が叫ばれている。(境内掲示より)

蝦蟇ヶ池辯天堂について

蝦蟇ヶ池辯天堂
昔、満面の水を湛へてゐた達谷川や北上川を美しい浮嶋が行き来するのを、奥州巡錫の慈覺大師は、五色の蝦蟇の姿である貧乏を齎す貪欲神ば化けてゐると見破った。大師は嶋を捕らへて窟毘沙門堂の前まで引きゐ、再び逃げ出さぬやうに一間四面の堂宇を建立し、蝦蟇を降伏する白蛇、即ち宇賀神王を冠にいただく八肘の辯才天女を自ら刻して祀り、蝦蟇ヶ池辯天堂と名付けたと傳へられる。昭和六十年の調査で蝦蟇ヶ池舊護岸から平安末期の土器が大量に発掘されてゐる。現堂は、昭和廿一年の大火で焼失し、昭和四十六年再建の堂が狭小で、神事の執行に甚だ不便であったゝめ、平成廿五年癸巳の歳に、元禄再建時の舊規に倣ひ、脇士の十五童子の内の九躰と共に、御修覆なつたものである。辯天様は巳年守本尊。昔から「薬師、辯天には錢上げて拝め」といはれ、金運商売の神で商家の信仰が厚い。智恵の神、技藝の神。そして「生けるが如し」と賞される美しい御姿は美人の譬とされたが、悋気な天女の故、仲良き男女は共に詣らぬ習しがある。また、蝦蟇ヶ池は神の池で、こゝに棲む生きとし生けるものは古来から辯天様の御使であり、特にも蛇はその最も尊いものとされてゐる。(境内掲示より)

姫待不動堂について

姫待不動堂
惡路王等は京から攫って来た姫君を窟上流の「籠姫」に閉ぢ込め、「櫻野」で暫々花見を楽しんだ。逃げようとする姫君を待ち伏せした瀧を人々は「姫待瀧」と呼び、再び逃げ出せぬよう姫君の黒髪を見せしめに切り、その髪を掛けた石を「鬘石」と云う。
姫待不動尊は智証大師が達谷西光寺の飛地境内である姫待瀧の本尊として祀ったものを、藤原基衡公が再建した。しかし年月を経て堂宇の腐朽が著しい為、寛政元年(一七八九年)に当地に移された。桂材の一木彫で全国でも希なる大師様不動の大像である。製作年代は平安後期で、岩手県有形文化財に指定されている。
酉歳の守本尊として名高く、また宮城県栗原の信者が生涯一度の大願を掛けに参拝する習が現在も続いている。
当地では「火之神様」と呼ばれ、火伏不動尊として信仰される他、眼病を治す御不動様として閼伽堂の水で眼を洗う習がある。猶、不動尊膝前に祀られる獅子頭は向って右が室町時代、左が江戸時代の作で達谷村の権現舞に使われたものである。(境内掲示より)

達谷窟毘沙門堂西光寺の周辺図


参考資料

  • 「盛岡の寺院」(平泉町仏教会)