龍澤寺。岩手県一関市中里沢田にある曹洞宗寺院
龍澤寺の概要
曹洞宗寺院の龍澤寺は、里中山と号します。龍澤寺は、藤原秀衡公の三男泉三郎忠衡が望淵山龍澤寺と号して文治2年(1186)東山舞草の龍ヶ澤に創建したといいます。その後当地を領有した葛西三郎清重が正治元年(1199)中津の郷金子橋付近に移築、葛西氏没落後に北上川の洪水により堂宇が破損し中里の沢田山に移転したと伝えられ、水沢市黒石の正法寺十七世格翁良逸大和尚を曹洞宗寺院として寛永元年(1624)開山としたといいます。
山号 | 里中山 |
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院号 | - |
寺号 | 龍澤寺 |
住所 | 一関市中里沢田17 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 龍澤寺こども園、なかさと保育園 |
龍澤寺の縁起
龍澤寺は、藤原秀衡公の三男泉三郎忠衡が望淵山龍澤寺と号して文治2年(1186)東山舞草の龍ヶ澤に創建したといいます。その後当地を領有した葛西三郎清重が正治元年(1199)中津の郷金子橋付近に移築、葛西氏没落後に北上川の洪水により堂宇が破損し中里の沢田山に移転したと伝えられ、水沢市黒石の正法寺十七世格翁良逸大和尚を曹洞宗寺院として寛永元年(1624)開山としたといいます。
境内掲示による龍澤寺の縁起
この寺は、里中山龍澤寺という。本寺は水沢市黒石の正法寺である。宗派は曹洞宗である。
初めは、文治二年(一一八六)藤原秀衡公の三男である泉三郎忠衡が東山舞草の龍ヶ澤に望淵山龍澤寺を建立した。
当時は天台宗であった。その後火災にあって正治元年(一一九九)葛西三郎清重が中津の郷金子橋付近に移築した。この地ではたびたび水害や火災にあい、天正十三年(一五八五)葛西晴信がこの寺を再建した。
秀吉の小田原城攻めに参陣しなかった葛西家は、その仕置きで没落し、世相の変転とともに寺運が衰退した。そして北上川の洪水により殿堂が破損したので中里の沢田山に移転したと伝えられている。この時代の開山は天台宗から曹洞宗に転宗した大空寛全禅師である。
阿部随波が伊達藩の鉱山奉行の東久賀から現在地を貰い受け、天和二年(一六八二)本堂を新築した。
これより先の寛永元年(一六二四)、この寺の住職に水沢市黒石の正法寺十七世格翁良逸大和尚を初代とし、(中略)二十七世中興祖道大顕大和尚、二十八世随意会開闢中興哲暗禅明大和尚、二十九世重興大教師淳恵素隆大和尚、現在の三十世徳文博隆大和尚と続いている。
この間に、次の五人の住職は本寺正法寺の住職に進んでいる。
初代格翁良逸大和尚
八世中興一通良歸大和尚
十一世徳州良忍大和尚
十七世天量恵潭大和尚
十八世仙齢恵鶴大和尚
平成十二円十二月吉日(中里地区里まちづくり委員会掲示より)
龍澤寺所蔵の文化財
- 石塔婆(一関市指定文化財)
石塔婆
石塔婆とは、死者の冥福を願うために建てられた石造の卒塔婆のことで、鎌倉から室町時代に数多く造られ、板碑と呼ばれています。
この龍澤寺の石塔婆は、弘安四年(一二八一)に境照沙門という人物が先師の追善供養に建てたもので、高さが一七一糎、幅約五三センチメートル、上端部分が丸みを帯びた粘板岩製です。その全面には供養文とともに、大日如来・阿弥陀如来・釈迦如来の三尊を表す三つの梵字が刻まれています。
県内では七番目に古い紀年銘を持つ本板碑は、当地方における信仰の発達を知るうえでも貴重な考古資料です。(一関市教育委員会掲示より)
龍澤寺の周辺図
参考資料
- 「盛岡の寺院」(一関市仏教会)