祥雲寺。岩手県一関市台町にある臨済宗妙心寺派寺院

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祥雲寺。岩手県一関市台町にある臨済宗妙心寺派寺院

祥雲寺の概要

臨済宗妙心寺派寺院の祥雲寺は、大慈山と号します。祥雲寺は、岩沼藩主田村隠岐守宗良が岩沼市長谷に長谷山大慈寺と号して寛文11年(1671)に創建、天和2年(1681)に田村建顕公が当地へ所領替えとなった際に当寺も当地へ移転、第二世古礀和尚が中興したといいます。長谷観音堂は、中興古礀和尚が仮堂を建立、第六世海嶽禅師が安永2年(1773)に新設したといいます。

祥雲寺
祥雲寺の概要
山号 大慈山
院号 -
寺号 祥雲寺
住所 一関市台町48-2
宗派 臨済宗妙心寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



祥雲寺の縁起

祥雲寺は、岩沼藩主田村隠岐守宗良が岩沼市長谷に長谷山大慈寺と号して寛文11年(1671)に創建、天和2年(1681)に田村建顕公が当地へ所領替えとなった際に当寺も当地へ移転、第二世古礀和尚が中興したといいます。長谷観音堂は、中興古礀和尚が仮堂を建立、第六世海嶽禅師が安永2年(1773)に新設したといいます。

「岩手県町村誌」による祥雲寺の縁起

(一關町)祥雲寺
字臺町にあり、境内一町一反二畝十八歩臨済宗大慈山と號す、山城國葛野郡花園妙心寺末天和二年中興古礀和尚開基。
封内記云、一關村祥雲寺臨済宗初寛文十一年十一月田村隠岐守宗良營於本州名取郡岩沼北長谷邑雲居和尚開山天和中宗良移采地於本邑時第二世古礀和尚中興移于本邑田村家寄百石地
とあり本尊は後鳥羽天の宸作と傳ふる千手觀世音にて初め下総守誠顯の守り本尊なりしと傳ふ。
觀音堂。祥雲寺境内にあり安永二年祥雲寺第六世海嶽禅師の新設なり初め假堂は古礀和尚の時建立せしものを改築せしものなり。(「岩手県町村誌」より)

土地堂(田村明神)について

禅宗で、境内、墓地を鎮守するお堂は土地堂と呼ばれます。祥雲寺でも江戸時代に稲荷、秋葉などの七柱の明神を祭ったようですが、明治以降、祥雲寺の衰退と共に荒廃し、忘れられた存在になっていました。
その情況を怒るかのように、平成十九年(2007年)に近くの杉が落雷を受け、平成二十一年(2009年)には堂内の蜂蜜をねらった熊が土地堂を破壊するなど事件が続きました。
この事態を受け十六世住職は、田村家遠祖・坂上田村麻呂公の千二百回忌にあたる平成二十三年(2011年)にお堂を改修し、田村麻呂公ゆかりの田村神社(滋賀県甲賀市)から田村明神を勧請し、土地を鎮めることとしました。しかし、三月十一日の東日本大震災により改修が遅れましたので、平成二十四年(2012年)は田村神社の田村麻呂公千に百年御鎮座祭に副住職、総代の二名を派遣するにとどめ、翌平成二十五年(2013年)十二月十四日に、田村神社に十六世、総代ら三名が参拝し、勧請の儀式を受けました。ここに土地堂は、新たに田村明神を御祭神として、大悲山及び一関の安寧を祈る鎮守として生まれ変わったのです。(境内掲示より)


いいお墓

祥雲寺所蔵の文化財

  • 保性院殿廟(岩手県指定文化財)
  • 祥雲寺一切経蔵(一関市指定文化財)

祥雲寺一切経蔵

本経蔵は、天命八年(一七八八年)当寺第八世陵霄和尚の開基になり、第十世龞(※敞に龜)和尚の代文政十一年(一八二八年)に完成した。内陣中央に八角形の転輪経蔵を据え、鞘堂は軸組、小屋根を二重の構架にし厚い土壁をまわしているのが特徴である。龞(※敞に龜)鞘堂の外部は、屋根宝形造、軒扇の二重垂木、棟の頂上には露盤と宝珠が乗り、総高は十五メートルほどもある白亜の高層建築物で屋根の四隅に風鐘を吊り、正面上部の虹梁に願王和尚(諏訪温泉寺の名僧)の揮毫になる巨額「薩雲」を掲げ、一大壮観を呈している。
転輪蔵は欅の心柱(直径四十二センチメートル)に八角錘形の屋根と軸部に八面の書棚をとりつけた二層の楼閣が構築されており、まわせば心柱とも回転する仕組みになっている。上、下層に囲縁と朱塗りの勾欄をめぐらし書棚に一二二個の引出箱と極彩色の開閉用折板戸を取りつけ、上、下層の組物は和様肘木と雲形肘木を用い、蔵は総じて精巧をきわめ、引出箱に黄檗版一切経六、一七一巻が収められてある。(一関市教育委員会掲示より)

田村家

一関藩時代(一六八二~一八六八)
天和元年(一六八一)三月、田村建顕公(田村家中興初代宗良の第二子)は、岩沼から一関に所替えを命ぜられ、翌二年(一六八二)五月一関に入部し、西磐井十一か村、流れ十六か村、東山十二か村、栗原郡二か村の総石高三万石を所領し、町内に城下町を建設した。
完成後は、釣山下(今の裁判所あたり)に居館を置き領内を統治した。
以来一関藩政は、明治四年の廃藩置県に至るまで、約百九十年間にわたって連綿と続いた。
その間、歴代の藩主は大いに文武を奨励し天明三年(一七八三)には藩校教成館を、弘化二年(一八四六)には慎済館(医学校)を開設する「などして後輩の育成指導につとめ、藩内より多くの、すぐれた人材を輩出した。
医学界では蘭学の先覚者建部清庵、その蘭学を継承大成した大槻磐水(玄沢)、数学界では、関流和算をひろめた千葉雄七、染織学の権威本間百里などがある。(一関市掲示より)

千葉胤秀について

幕末、文政以後の県南から宮城県北にかけては、和算王国と呼んでいいほど盛んで数学を学人が多かった。この中心となったのが関流和算の千葉雄七胤秀である。
今の花泉町で生まれ、幼い頃から数学を好み、一関藩家老梶山主水次俊に学び、文政元年(一八十八)江戸に出て関流正統六伝、長谷川寛の門に入って修業した。
日ならずして見題、隠題の免許二巻を受けその後、諸国を巡業して至ところでその術を受けた。
文政十一年(一八二八)一関藩主田村邦顕公から数術抜群のため、賞として士籍に取り立てられ一関に移って算術師範役となることを命ぜられた。
天保二年(一八三一)「算法新書」を著しこの功で徒士組に昇り、同十三年(一八四二)には中小姓組に昇進している。
弘化三年(一八四六)藩主から御下賜金と門人の寄附金をもって算額道場を建築し、数千の門弟を教育、和算の興隆につとめた。
顕彰碑は、嘉永四年(一八五一)門人たちが建立した。(一関市掲示より)

建部清庵について

初代清庵元水の二男で、初めの名は由正。代々清庵と号し、初代元水の代から医業をもって一関藩に仕えた。
享保十五年(一七三〇)十九才の時、仙台に遊学し、その後藩主田村村隆公より学資を賜わって、江戸遊学を許され独力で和蘭医学を極めた。
寛延元年(一七四八)三七才で家督を相続する。この頃、奥羽は凶作飢饉が続き、宝暦五年(一七五五)が最も甚しく、藩内でたくさんの人馬が飢死した。そのなかには、食糧の代わりに有害な草木を知らずに食べて死亡したものもあり、清庵は嘆き悲しみ、施薬調合の良法を研究し、「民間備荒録」上下二巻を著した。その後、食用植物が一目見てわかるように「備荒草木図」二巻を著わした。
一方、和蘭医学の真相を確かめようと明和七年(一七七〇)蘭方医事の疑義を四ヶ条にまとめ、門人衣関甫軒に託し江戸へ走らせ、杉田玄白に示した。この後、玄白清庵の文通が行なわれた。
安永二年(一七七三)正月-玄白答
同四月九日-清庵再問
同十月十五日-玄白答
二往復である。(清庵六二才、玄白四一才)
後年この手紙は「和蘭医事問答」として出版され、後進の勉学に寄与することとなった。
顕彰碑は、昭和十五年(一九四〇)皇紀二六〇〇年の記念事業として西磐井郡医師会(現一関医師会)が建立した。(一関市掲示より)

豊谷寺由来と伊達兵部宗勝墓碑について

江戸初期の一関領主の菩提所で今は廃寺となった
豊谷寺由来と墓碑
伊達兵部宗勝は元和七年(一六二一)伊達政宗の十男(母、多田氏)として生まれ、万治三年(一六六〇)仙台藩主第三代綱宗の隠居に伴い、岩沼の田村宗良とともに当時二歳の第四代藩主、綱村の後見役となり、一関地方三万石を領有した。豊谷寺は兵部の菩提所で、後見役になる以前、一関地方の一部が既に兵部の所領だった時期の寛永十八年(一六四一)に現在の一関市高崎町に建立された。
ところが、後見役による政治が伊達家中の内紛をよぶ、寛文十一年(一六七一)、大老酒井雅楽頭邸内で原田甲斐宗輔が伊達安芸宗重を切り殺す寛文事件が起きた。この伊達騒動にかかわった兵部、甲斐は「伽羅仙台萩」などによって悪玉に仕立てられた。
豊谷寺は、兵部が土佐に流されてから衰退の一途をたどり、明治以降ついに廃寺となった。兵部一族や家臣、住職などの墓石はそのまま廃寺跡に放置され、かえるみる人もなかった。
祥雲寺十六世(現住)は、この状況を憂え、正しい歴史が後世に伝えられんことを願い、墓石を引き取り、新たに一族、関係者の墓所をつくり供養することとなった。
平成四年(一九九二)八月吉日(境内掲示より)

祥雲寺の周辺図


参考資料

  • 「盛岡の寺院」(一関市仏教会)