大慈寺。岩手県盛岡市大慈寺町にある黄檗宗寺院

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大慈寺。岩手県盛岡市大慈寺町にある黄檗宗寺院

大慈寺の概要

黄檗宗寺院の大慈寺は、福聚山と号します。大慈寺は、京都で学んだ徳真道空和尚が寛文年間(1661-1673)に当地で草庵を営み修行、南部重信公が帰依し、一宇を建立し開山したといいます。明治17年(1884) 下の橋刑務所から出火した大火により類焼したものの、原敬の援助を受けて再建、原敬の菩提寺となりました。

大慈寺
大慈寺の概要
山号 福聚山
院号 -
寺号 大慈寺
住所 盛岡市大慈寺町5-6
宗派 黄檗宗
葬儀・墓地 -
備考 -



大慈寺の縁起

大慈寺は、京都で学んだ徳真道空和尚が寛文年間(1661-1673)に当地で草庵を営み修行、南部重信公が帰依し、一宇を建立し開山したといいます。明治17年(1884) 下の橋刑務所から出火した大火により類焼したものの、原敬の援助を受けて再建、原敬の菩提寺となりました。

「盛岡の寺院」による大慈寺の縁起

福聚山大慈寺<大慈寺町5-6>
創建 寛文十三年(一六七三)四月
本尊 如意輪観世音菩薩
開基 徳真道空和尚
開基徳真和尚は俗姓長野氏、元和六年(一六二〇) に生まれる。伯父境某に嗣子がなかったので養子となる。長ずるに従って深く仏門に帰依し、正保二年(一六四五)養父母の反対を抑し切って、洛北大応寺快円律師のもとに走り、得度出家した。それから快円律師に就き、禅律を兼修し、また広く経論を学ぶ。後、黄檗にのぽり、木庵禅師に師侍し、法を求め、ひたすら修業をした。寛文年間(一六六一~七三年)当地に下向して草庵を建て、生涯出世を願うことなく、ただ法を弘めるだけの生活をした。太守重信公がこれを聞いて深く帰依し、糧料を賜ると言ったが堅く辞退した。
ついに土地を賜って一宇を建立し、福緊山大慈寺と称した。
寺院沿革
二代逸堂和尚になって、行信公息女麻久姫(光源院殿貞林賢慧大姉、享保十三年八月十九日寂)の帰依を受け、元禄十四年(一七〇一)十一月、久慈弥次右門から現在の寺地を買い取り、堂塔を建立して景観が整った。その後、年月を経て、明治十七年(一八八四) 下の橋刑務所から出火した大火の際、類焼の厄に遭い、堂宇は勿論すべてを失い、末寺である天福院を移し、庫裡は仮普請で過ごしていた。明治十七年(一九〇四)頃に原敬の援助を受けて山門が建立された。その頃の本堂及び庫裡は次第に破損し、殊に庫裡は甚だしく老朽化して修繕も容易のことではなかった。時の住職は、原敬に本堂・庫裡の修繕を願ったところ快諾を得て、本堂・庫裡の新築がなされ、現在に至っている。(「盛岡の寺院」より)


大慈寺所蔵の文化財

  • 大慈寺山門(保存記念物)
  • 原敬墓所

原敬墓所

原敬は、安政3年2月9日に生まれました。明治4年15歳で戊辰戦争敗戦の屈辱を秘め上京し、新聞記者を経て、明治政府の役人となり外務省などに勤めました。その後大正3年6月、第3代立憲政友会総裁、大正7年9月には、平民でわが国初の内閣総理大臣(第19代)となりました。
清廉潔白と言われた原敬は、生涯衆議院議員を貫き通し、自由と平和を愛し、藩閥、軍閥、官僚などの特権階級と対決しながら、明治憲法下で政党政治を実現しました。
大正10年11月4日、東京駅丸の内南口で暗殺され、遺体は盛岡に運ばれ11月11日悲しみの雨が降りしきる中、ここ大慈寺に埋葬されました。
原敬は、大正10年2月20日付の遺書の中に
「一、死去の際位階勲等の叙勲は余の好まざる所なれば死去せば即刻発表すべす
一、東京にては何等の式を営むに及ばず、遺骸は盛岡に送りて大慈寺に埋葬すべし
一、墓石の表面には余の姓名の外戒名は勿論位階勲等も記すに及ばず」
と記しています。遺書のとおり、「原敬墓」とのみ刻まれた墓石は、最期まで平民として生きた原敬の強い信念が表れています。隣りには、内外の厳しい政情の中を歩む原敬を最後まで支えた妻淺が「主人と同じ深さで埋葬されたい」という願いをかなえて眠っています。
原敬が15歳まで生活した市内本宮の「原敬生家(市指定有形文化財)」に隣接して建てられた原敬記念館では、原敬の遺品とともにその業績を辿ることができます。(境内掲示より)

大慈寺の周辺図


参考資料

  • 「盛岡の寺院」(盛岡市仏教会)