大泉寺。斎藤実盛の三男顕然房好覚創建
大泉寺の概要
浄土宗寺院の大泉寺は、亀通山霊井院と号します。大泉寺は、斎藤実盛の三男で平家滅亡後に出家し、浄土宗法難に際して伊豆に配流された顕然房好覚が、法然上人入滅後、専立庵悟真寺と号して建保3年(1215)二戸に創建、南部光行公の帰依を受けたといいます。
山号 | 亀通山 |
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院号 | 霊井院 |
寺号 | 大泉寺 |
住所 | 盛岡市本町通1-14-1 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
大泉寺の縁起
大泉寺は、斎藤実盛の三男で平家滅亡後に出家し、浄土宗法難に際して伊豆に配流された顕然房好覚が、法然上人入滅後、専立庵悟真寺と号して建保3年(1215)二戸に創建、南部光行公の帰依を受けたといいます。
「盛岡の寺院」による大泉寺の縁起
開山は顕然房好覚、建保三年(一二一五)の開創と伝う。
好覚は斎藤実盛の三男で、右京権頭の任にあったが、平家滅亡後剃髪して法然上人の門に入る。建永の法難には伊豆に配流され、歎異抄付記にその名をとどめている。
法然上人入滅後、念仏弘通のため奥州に下り、糠部郡福岡(現在の二戸市)に草庵を建立し、専立庵悟真寺と号した。建立にあたり南部光行公の帰依を得る、と寺伝にはある。
当時奥州には、師命を受けた金光上人が苦難の伝導を続けていた。時に法然上人が入滅され、阿房之助道人がその知らせを金光上人にもたらすのだが、開山好覚がその折同行したらしいことが、寺伝に見える。
なお、建永元年(一二〇六)金光上人盛丘大泉寺を改宗し、創建すとの史料があるが、寺伝とは合致しない。 (「盛岡の寺院」より)
大泉寺所蔵の文化財
- 木造阿弥陀如来坐像一体(盛岡市指定有形文化財)
- 木造十一面観音菩薩立像一体(盛岡市指定有形文化財)
- 紙本着色阿弥陀三尊来迎図屏風一隻(盛岡市指定有形文化財)
- 大泉寺本堂(盛岡市指定有形文化財)
- おかんの墓
中井汲泉画碑「雪路」
桧材寄木造の漆箔像。結跏趺坐して臍下で定印を結んでいる。藤原、鎌倉時代に多く見られる阿弥陀如来像の様式である。胴体部と胸部は古式を留めており、室町期以前の製作と見られる。(盛岡市教育委員会掲示より)
木造十一面観音菩薩立像一体
桧材寄木造の漆箔像。製作年代が室町期に遡ると思われる優品である。像容はやや写実的で、衣の文様が宋風であることから鎌倉時代以降の様式が見られる。(盛岡市教育委員会掲示より)
紙本着色阿弥陀三尊来迎図屏風一隻
三折形式の来迎図。広幅の中央部に阿弥陀如来を描き、向かって右に蓮台を奉持する観音菩薩、左手に合掌する勢至菩薩を描く。紺紙に金泥で描く尊像は室町期を代表する傑作で気品に溢れている。(盛岡市教育委員会掲示より)
おかんの墓
福岡城主九戸政実が南部信直に亡ぼされ、家臣畠山重勝は自刃、その一人娘おかんは家来の三平と夫婦になって盛岡へ来た。夫は盛岡城築城人夫となって働いていたが、工事中重傷を負い再び哀れな運命に追い込まれた。組頭である高瀬軍太はかねてから気品高いおかんに思いを寄せていたが、三平の災難をきっかけにますます露骨になり、夫の運命にも危機が迫ったので、困ったおかんは夫を殺害するなら意に従うと組頭を欺き、その夜、変装して夫の身代になって貞死した。軍太はまもなく仏門に入り、遺族の生計を助けた。
現在の墓碑は、いまのカンカンと不思議な音がするといわれている。(盛岡市観光課掲示より)
大泉寺の周辺図
参考資料
- 「盛岡の寺院」(盛岡市仏教会)