願教寺。岩手県盛岡市北山にある浄土真宗本願寺派寺院

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願教寺。岩手県盛岡市北山にある浄土真宗本願寺派寺院

願教寺の概要

浄土真宗本願寺派寺院の願教寺は、北峰閣無量殿と号します。願教寺は、親鸞聖人の二十四輩の一人是信房の末裔である浄信房が、慶安年間(1648-1653)盛岡市浅岸に創建、延宝4年(1676)に本山から寺号公称を許可されています。寛文10年(1670)の北上川・中津川の氾濫により堂宇が流失、翌年に第二十八代山城守重直公送葬地でもある北山の地を賜り再建、十三ケ寺の末寺・塔頭を擁していたといいます。

願教寺
願教寺の概要
山号 -
院号 -
寺号 願教寺
住所 盛岡市北山1-4-5
宗派 浄土真宗本願寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



願教寺の縁起

願教寺は、親鸞聖人の二十四輩の一人是信房の末裔である浄信房が、慶安年間(1648-1653)盛岡市浅岸に創建、延宝4年(1676)に本山から寺号公称を許可されています。寛文10年(1670)の北上川・中津川の氾濫により堂宇が流失、翌年に第二十八代山城守重直公送葬地でもある北山の地を賜り再建、十三ケ寺の末寺・塔頭を擁していたといいます。

「盛岡の寺院」による願教寺の縁起

開山
当山は、慶安年間に盛岡の郊外、浅岸の地に浄信房によって一宇を草創、願教寺と名付けた。開基の浄信は、親鷺聖人二十四輩の一人、東北地方に派遣された是信房の末裔であり、秋田六郷善証寺の十五世(一説に十世)である。それより先、正保二年(一六四五)に木仏安置が許可され(陸奥国下帳)、延宝四年(一六七六)に本山より寺号公称が許可されている。
寺院沿革
寛文十年(一六七〇)六月、北上川、中津川の両川が氾濫、堂宇が流失したが、翌十一年南部重信公より北山の勝地を賜り再建する。この地は第二十八代山城守重直公送葬地で、現今の境内地である。文化十三年(一八一六)に失火して堂宇は灰燼に帰したが、弘化二年(一八四五)に藩主信濃守利済公の幼少時、当山の衆徒としての縁により境域を拡張、本堂・書院・山門を造営し、荘厳の美を極めた。篤焉家訓によると、近世における当山は、十三ケ寺の末寺並に塔頭(塔中)として、妙誓寺(天和二年寺号公称)、真行寺(享保十二年寺号公称)を擁して、近江商人系は勿論のこと、多数の城下商人階級及び御用諸職人等の信仰を集めて大きく発展した。明治二十五年(一八九二)当時、傑僧と仰がれた勧学島地黙雷が二十五代の法灯を継職、明治三十八年東北開教総監の重責を有し、寺院の復興と布教活動に努める。続いて、当代随一の学僧として活躍の島地大等が二十六代を継ぎ、寺基益々堅く、東北開教部を設け、県内各地に布教伝道し、岩手仏教婦人会を創設して婦人の信仰心に火を点じ、東都においては、東京帝国大学をはじめ各大学に仏教教学を講じ、本山にあっては、安居本講をつとめ阿弥陀経を講じ、御門主猊下の教育係として身心を捧げた。(「盛岡の寺院」より)


願教寺の周辺図


参考資料

  • 「盛岡の寺院」(盛岡市仏教会)