本誓寺。岩手県盛岡市名須川町にある真宗大谷派寺院
本誓寺の概要
真宗大谷派寺院の本誓寺は、石森山重願院と号します。本誓寺は、親鸞聖人の二十四輩の一人是信房が紫波郡彦部に創建、天正12年火災により焼失し二日町へ移転、寛永12年(1635)盛岡へ移転したといいます。
山号 | 石森山 |
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院号 | 重願院 |
寺号 | 本誓寺 |
住所 | 盛岡市名須川町3-16 |
宗派 | 真宗大谷派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
本誓寺の縁起
本誓寺は、親鸞聖人の二十四輩の一人是信房が紫波郡彦部に創建、天正12年火災により焼失し二日町へ移転、寛永12年(1635)盛岡へ移転したといいます。
境内掲示による本誓寺の縁起
浄土真宗の教えをひろめる親鸞聖人の弟子は百人も数えるが、その中の主な弟子たちのことを書いたものに「親鸞門侶交名牒」と呼ばれるものがある。その十番目に、奥州和賀郡一拍の是信房の名がある。
親鸞聖人が常陸稲田におられた時に救われるようにとの念を深くして、当開基の是信房に命じ、その任にあたらせた。その時、お別れを惜しむと親鸞聖人は、「後の世の記念に残す面影は、弥陀たのむ身のたよりともなれ」とうたわれ、御自身の肖像を彫りまた、阿弥陀如来の尊像の両側に南無阿弥陀仏と書かれた=名体不離の本尊=を是信房に与えられた。時は建保三年(一二一五)であった。
その後、是信房は一寺を紫波郡彦部村松田に創建、石森山重願院本誓寺と称して、およそ五十二年、大いにこの道をひろめられ、そのため、上人より光明本一幅を与えられるが、文永三年(一二六六)十月十四日八十六歳で亡くなる。
寛永十二年(一六三五)十六世の賢勝が南岩手郡米内村に本誓寺を移し、かわりに正養寺を彦部に建て、弟の慶正に寺祖の墳墓を護らせる。
嘉永三年(一八五〇)、二十五世の是伝が寺曾の墳墓を村内三ツ割に移して現在に至る。
親鸞聖人お教えをはじめて奥州へ伝えてから七百年余りになるが、近世末期までは五十六の末寺を数え当本誓寺には、初期教団としての宝物も数多く蔵されている。
なお本誓寺宝物には「御真影」「光明本尊」「名体不離本尊」それに「光明摂取本尊」が伝わっている。(境内掲示より)
「盛岡の寺院」による本誓寺の縁起
開基是信房は宗祖親鷲聖人の直弟にて本宗を開くに弟子百人余門侶交名牒帳に第十一番目に和賀に住すとあり。親鷲聖人の弟子の内有名な弟子を二十四人選ばれ、二十四輩第十番目の弟子として選ばれた。諱は信明、姓藤原吉田氏、養和元年京都に生まる。父正信の後を襲ふて、大納言に任ぜる曽て讒に遭ひ越前に配せらる。己にして釈さる。復官途に在るを欲せず、偶たま霊夢を感じ大師越後の国府に在るを聞き乃ち往きて謁し約して弟子となる。大師命じて是信房と名く、爾後事に侍し懈まず大師嘗って常陸稲田に在り師に謂って日く我奥羽に到り斯道を弘めんと欲す而して未だ果さず子其れ代りて往けと乃ち自ら其肖像を刻し且つ仏像を画き仏名を書し名づけて名体不離本尊と日ふ授けて以て別れを送る師泣謝し之を奉じ陸奥和賀郡一柏に到る時に建保三年也。既にして一寺を紫波郡彦部村松田に創建し石森山重願院本誓寺と為す。(「盛岡の寺院」より)
本誓寺所蔵の文化財
- 木造阿弥陀如来立像一体(盛岡市指定文化財)
- 木造親鸞聖人坐像一体(盛岡市指定文化財)
- 木造聖徳太子立像一体(盛岡市指定文化財)
木造阿弥陀如来立像一体
桧在寄木造りの漆箔像。衣紋は深く左右対称となり、平安後期の像容を留めているが、室町以前の制作と見られる。上品下生の来迎印を結んでいる。明治二十九年(一八九六)に実施された「臨時全国宝物取調」の対象となり、「全国宝物参攷簿」に登録された本尊である。(盛岡市教育委員会掲示より)
木造親鸞聖人坐像一体
楠材寄木造り。坐像全体が写実的で祖師像として優れ、鎌倉期の力強さがよく表現されている。頭部に蓮の葉痕が刻まれているところから、「蓮冠の御真影」と称されている。親鸞御真影三躰の内の一躰であり、諸国に知られた宝物である。(盛岡市教育委員会掲示より)
木造聖徳太子立像一体
楠材寄木造り。寛政八年(一七九六)八月に遠州(静岡県)中内田村の尚宝院から譲り受けたものである。彫りは写実的で仏師の非凡さがうかがわれる古像で、柄香炉を持つ。「孝養太子」の像としては県内でも出色のものである。(盛岡市教育委員会掲示より)
本誓寺の周辺図
参考資料
- 「盛岡の寺院」(盛岡市仏教会)