報恩寺。岩手県盛岡市名須川町にある曹洞宗寺院

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報恩寺。岩手県盛岡市名須川町にある曹洞宗寺院

報恩寺の概要

曹洞宗寺院の報恩寺は、瑞鳩峰山と号します。報恩寺は、南部家十三代英主守行公が応永元年(1394)三戸八幡側に創建、盛岡城下の整備に伴い、慶長6年(1601)当地へ移転したといいます。その後衰微したものの久山舜桂大和尚が再興、永禄12年(1569)南部家より寺領二百石を受領、江戸期には南部領の曹洞宗寺院208ヶ寺の総録司だったといいます。

報恩寺
報恩寺の概要
山号 瑞鳩峰山
院号 -
寺号 報恩寺
住所 盛岡市名須川町31-5
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



報恩寺の縁起

報恩寺は、南部家十三代英主守行公が応永元年(1394)三戸八幡側に創建、盛岡城下の整備に伴い、慶長6年(1601)当地へ移転したといいます。その後衰微したものの久山舜桂大和尚が再興、永禄12年(1569)南部家より寺領二百石を受領、江戸期には南部領の曹洞宗寺院208ヶ寺の総録司だったといいます。

境内掲示による報恩寺の縁起

報恩寺は応永元年(一三九四)南部家十三代の英主守行公によって三戸に創建され、慶長六年(一六〇一)二十七代利直公のとき現在地に移転された。
藩政時代は寺領二百石を有する南部領内二百八ヶ寺の総領であった。現在も寺域七千坪を有する曹洞宗一方の勝刹である。
本尊釈迦文殊普賢の三尊像は元大和中善寺本尊像で聖徳太子作と伝え、羅漢堂の中尊毘盧舎那仏は元大和橘寺金堂本尊像で弘法大師作と伝えている。
市文化財指定の羅漢堂及び五百羅漢像は享保二十年(一七三五)の落成開光で、像は中国天台山像を模して京都で作製されている。
本堂背後の坐禅堂には文殊菩薩を中心に五十人分の禅床がめぐらされている。「瑞鳩峰山」の扁額を掲げる三門楼上には十一面観音がまつられている。(境内掲示より)

「盛岡の寺院」による報恩寺の縁起

瑞鳩峰山報恩寺<名須川町31-5>
開山・縁起
応永元年(一三九四)南部家十三代守行公によって、三戸八幡の側に一寺が開創された。南部家を相続して七年目の守行公三十八歳のときである。すでに病のため剃髪して入道禅高と称しており、父政行公の七回忌を迎えたのを契機に、一つには南部家の初代光行公から十二代政行公に至る父祖の成菩提を願って、一つには父政行公生前の志を承けて自身及び一族主従の参禅の道場を開かんがために開基され、創建されたといわれる。
山を「瑞鳩峰」と号したのは、瑞鳩を象徴とする南部家の氏神八幡さまの側を開創の地としたことによる。寺を「報恩寺」と称したのは、中国古来、父の菩提を弔って建てられた寺には「報恩光考寺」「報恩寺」と名付けられ、母の菩提を弔って建てられた寺には「大慈思寺」「慈恩寺」と名付けられてきていることによるであろう。
寺院沿革
南部家十三代守行公によって開創された報思寺は、守行公亡きあと次第に衰壊の一途をたどり、足利時代末期には、その寺跡を残すのみとなっていてやがてその寺跡には、名久井の法光寺の宿寺(別院)が建てられるに至っていた。
二十四代晴政公の代、その法光寺の宿寺として建てられていた平院が、新潟県柏崎市の香積寺第五世通山長徹大和尚を本師と仰ぐ久山舜桂大和尚によって法地に格上げされて再興され、「瑞鳩峰山報恩禅寺」の法幢が建てられて、百日間の"江湖会"(雲水の修行期間)が開かれた。それにより、永禄十二年(一五六九)南部家より知行二百石が給付されたのである。
二十七代利直公の代、南部家では領地の南下に伴い、領内の都城を一二戸から不来方改め盛岡に移築することになったが、その盛岡築城の一環として神社仏閣の移転が行なわれ、報思寺も四世養山玄想大和尚のとき、三戸八幡の側から盛岡の現在地に移転された。
移転後、五世鳳庵存竜大和尚代に、市内の祇陀寺、雫石の広養寺が末寺となり、六世善室梵積大和尚代に、市内の竜谷寺、下斗米の聖福院、玉山の常光寺、小軽米の実相寺が末寺となり、七世慶室恕悦大和尚代に、市内の恩流寺、石鳥谷の広済寺、田子の耕田寺、釜石の常楽寺、野辺地の常光寺、松尾の鷲連寺が末寺となった。
また、九世蘭翁嫩芝大和尚代に、市内の久昌寺、一戸の広全寺、田頭の東慈寺、因子の洞円寺、渋民の宝徳寺、岩泉の正徳寺が末寺となれ、十世天山宝鏡大和尚代に、下田喜雲寺、葛巻の正福寺が末寺となり、十一世仏山祖心大和尚代に、岩泉の雲岩寺、福岡の竜岩寺、石切所の長福寺、鳥越の淵竜寺、釜石の石応寺が末寺となった。
さらに、十三世文嶺喬志大和尚代に、小鳥谷の仁昌寺、二十五世心月智明大和尚代に、十和田の澄月寺、三十四世祖祥大麟大和尚代に、松尾の明義寺が末寺となって、移転以前、三世幸岳東慶大和尚代に、大槌の江岸寺、四世養山玄想大和尚代に五戸の高雲寺が末寺になっているのを加えて、現在末寺三十ケ寺の本寺となっている。
なお、万治三年(一六六〇)九月、関三刹(当時の宗務長)より「南部藩内曹洞二百八カ寺の支配を命ず」の総録司任命状を受け、明治三十五年(一九〇二)「岩手管内五支局に分離して当寺より引き去る」まで、報恩寺は岩手県下曹洞宗寺院の総録司であった。
現在は、曹洞宗の徒弟教育専門僧堂であり、檀家千二百戸の菩提寺であり、地域社会の参禅道場ともなっている。(「盛岡の寺院」より)


報恩寺所蔵の文化財

  • 報恩寺五百羅漢(盛岡市指定文化財)
  • 報恩寺五百羅漢堂(盛岡市指定文化財)

報恩寺五百羅漢

鳩峰山報恩寺は、旧盛岡藩における曹洞宗の名高い寺である。五百羅漢は当寺第17世曇樹一華が願主となり享保16年(1731)から造立をはじめ同20年(1735)8月20日、落慶供養をいとなんだものである。尊像制作者は、京都の仏師法而重賢、駒野定英珍盈、駒野丹下定孝ら9人。このように短期間に完成し、しかも木彫で、五百羅漢の数値にかなうような軀数が現存し、造立年代や願主、制作者まで明確に知りうることは全国的にみてもまれなことである。昭和41年10月18日、盛岡市文化財指定。現存の羅漢堂は、嘉永4年(1851)の再建。昭和45年2月25日、盛岡市文化財指定。(境内掲示より)

報恩寺の周辺図


参考資料

  • 「盛岡の寺院」(盛岡市仏教会)