妙法山千手院。盛岡三十三観音30番
千手院の概要
天台宗寺院の千手院は、妙法山と号します。千手院は、権少僧都円秀大和尚(元禄6年寂)が開基となり創建したといいます。盛岡城築城に伴い紫波郡より盛岡愛宕山へ移転、天台宗48ヶ寺の惣録を務め、藩より寺領300石を受領して法輪院広福寺が明治3年に廃寺となったことから、仏像などを当寺へ安置、また慈覚大師が開基・奥州藤原三代秀衡公が建立したと伝えられる八護念山証讃寺西光院を近年合併しています。盛岡三十三観音30番です。
山号 | 妙法山 |
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院号 | 千手院 |
寺号 | - |
住所 | 盛岡市鉈屋町1-24 |
宗派 | 天台宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
千手院の縁起
千手院は、権少僧都円秀大和尚(元禄6年寂)が開基となり創建したといいます。盛岡城築城に伴い紫波郡より盛岡愛宕山へ移転、天台宗48ヶ寺の惣録を務め、藩より寺領300石を受領して法輪院広福寺が明治3年に廃寺となったことから、仏像などを当寺へ安置、また慈覚大師が開基・奥州藤原三代秀衡公が建立したと伝えられる八護念山証讃寺西光院を近年合併しています。
「盛岡の寺院」による千手院の縁起
開基は権少僧都円秀大和尚(元禄六年十月二十九日示寂墓碑あり)で、境内の阿弥陀如来石像銘に、「延宝五年五月天台沙門円秀建立」とあり、その頃の草創と考えられる。
本尊は千手観世音菩薩で、古来より子年生まれの方の守本尊として信仰され、右に不動明王、左に毘沙門天を両脇侍とする天台独自の三尊形式をとる。
千手院五世中興宣円和尚の藩書上によると、春日の作にして元禄年中、念願により玉城清水の尊体を遷座されたと記されている。寺伝によると、三十年一回の開帳とされて、固く厳封されて今日に至っている。なお、亭保十七年、明治十七年の盛岡の大火に類焼、古記録等が消失しているため縁起は判明していない。
(中略)
〈法輪院広福寺縁起〉
当院は、紫波郡日詰牡丹野の地にあり、斯波氏の祈願所であったが、後に南部二十八代重直公により、盛岡の愛宕山の地に移され、毘沙門堂門跡より法輪院の院号を許可された。もと古義真言宗であったが、天台宗に改宗され、寺領三百石を賜り、南部領内天台宗四十八ケ寺の惣録を司り、明治維新を迎えたが、惜しくも明治三年廃寺となり、本尊八体仏をはじめ、仏画等は末寺の千手院に伝来された。
〈八護念山証讃寺西光院縁起〉
俗に山岸阿弥陀堂と称される西光院は、慈覚大師の開基にして、康治二年(一一四二)善行和尚再興、または奥州藤原三代秀衡公の建立の伝承をもつ市内屈指の古利であったが、幾歳月の問に堂宇は荒廃し、本寺千手院に近年合併となった。 (「盛岡の寺院」より)
厄よけ観音千手院畧縁起
本尊千手観音(右不動明王・左毘沙門天)
右三尊は寺伝によると春日の作にして当院開山寛智円秀法印元禄年中念願により王城清水の尊体を遷座され、南部三十代藩主行信公の信仰厚く元禄十年堂宇を建立され、その後歴代藩主を初め四民の尊信厚く至心信仰の人々に幾多の不思議な霊験を与え今日に至っている。(境内掲示より)
千手院所蔵の文化財
- 木造阿弥陀如来坐像1体(盛岡市指定文化財)
木造阿弥陀如来坐像1体
市内山岸にあった「阿弥陀堂」と称される天台宗護念山西光院は慈覚大師開基と伝えられるが、その阿弥陀堂から本寺に伝えられた古佛像2体のうち1体が阿弥陀如来坐像である。
像高79センチ、寄木造りの漆箔像で、手印は上品上生の定印を結ぶ。古い作風にみる背板が張られ、偏弾右肩の装いで、衣の彫は浅く、肉髻は扁平で螺髪も荒く簡素であり、地蔵菩薩のような環付の袈裟をまとっている。相好は深い慈悲相にあふれ、姿態の表現が写実的で、素朴な力強さが感じられる。
室町時代の地方作といわれており、盛岡城築城以前から天台宗がこの地に深く根付いていた様子をうかがい知ることができる貴重な仏尊だといえる。
西光院は昭和47年に廃寺となり、本像は千手院に移され、水子供養の本尊として安置されている。(盛岡市教育委員会掲示より)
千手院の周辺図
参考資料
- 「盛岡の寺院」(盛岡市仏教会)