聖寿寺。南部藩歴代藩主の墓所
聖寿寺の概要
臨済宗妙心寺派寺院の聖寿寺は、大光山と号します。聖寿寺は、南部家二代実光公が父・初代南部三郎光行公菩提のため青森県三戸小向村正寿寺に建久3年(1192)創建、特賜三光両朝国済国師が開山したといいます。南部家の盛岡移転に伴い、慶長18年(1613)盛岡へ移転、南部信直公葬儀の折に、松島瑞巌寺九十四世石門禅師を勤請し中興開山、延宝3年(1673)には寺号を正寿寺を聖寿寺に改めたといいます。南部藩歴代藩主の墓所です。
山号 | 大光山 |
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院号 | - |
寺号 | 聖寿寺 |
住所 | 盛岡市北山2-12-15 |
宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
聖寿寺の縁起
聖寿寺は、南部家二代実光公が父・初代南部三郎光行公菩提のため青森県三戸小向村正寿寺に建久3年(1192)創建、特賜三光両朝国済国師が開山したといいます。南部家の盛岡移転に伴い、慶長18年(1613)盛岡へ移転、南部信直公葬儀の折に、松島瑞巌寺九十四世石門禅師を勤請し中興開山、延宝3年(1673)には寺号を正寿寺を聖寿寺に改めたといいます。
「盛岡の寺院」による聖寿寺の縁起
開山・縁起
建久三年(一一九二)南部家二代実光公が父・初代南部三郎光行公菩提のため青森県三戸小向村正寿寺に建立する。
開山は特賜三光両朝国済国師である。
南部二十六代信直公時代、居城を三戸より盛岡に移城の折、慶長十八年に盛岡に移される。南部二十七代利直公が父信直公葬儀の折、引導師として伊達正宗公に対して松島瑞巌寺九十四世石門禅師を勤請して中興開山にした。
寺院沿革
延宝三年(一六七三)、大本山妙心寺二百四十二世大道生安禅師が霊元天皇から紫衣を賜り、正寿寺を聖寿寺に改められた。
文禄元年(一五九二)、二十六代信直公が、居城を三戸から盛岡に移城した際、南部家に関係ある寺院がことごとく移された。このとき、聖寿寺もこの地に移ったが、はじめは現在の岩手大学本部のあたりに、むかし門前町または高源寺坂と呼んでいる高源寺に、仮に聖寿寺を定め、二十八代重直公の時代に現在地に完成した。(「盛岡の寺院」より)
聖寿寺所蔵の文化財
- マリア観音像(厨子付)一体(盛岡市指定有形文化財)
- 南部家歴代当主等墓所
マリア観音像(厨子付)一体
本像は合掌印の観音形のマリア像で極めて精巧な青銅鋳造の小像である。二代藩主南部利直の正室となった蒲生氏郷の養妹である於武の方が持参したものと伝えられ、南部家の御下賜品で秘像とされたものである。
この像を納めている厨子は青銅円筒形で天蓋が上に開くように蝶番で止められ、前面もアーチ形の扉が蝶番で開閉できるようになっている。内側はすべて鍍金され、天蓋の上部にNDEDの文字が三冠文の中に刻まれている。
「マリア観音像」及び「厨子」は、ともに桃山時代におけるキリスト関係資料として貴重な文化財である。(盛岡市教育委員会掲示より)
横川省三
横川省三は、慶応元年4月、南部藩士三田村勝衛の二男として、盛岡、上米内に生まれた。初め勇治と称し、青年期に山田を姓としたが、のち和賀郡十二鏑村(東和町)の横川家に入籍、名も省三と改めた。若くして雄心勃勃、明治17年、上京して、自由民権運動に加わったが、次いで東京朝日に入社。郡司大尉の千島探検には特派員、日清戦争には従軍記者として参加し、万難を排して、よくその取材報道に縦横の筆を揮った。明治29年、社を辞して渡米、暫く移民事業に携ったが、東亜の風雲漸く急を告げるに及び、意を決して満蒙に入り、日露戦争勃発するや、沖禎介等同志と共に、露軍の後方攪乱を企て、嫩江大鉄橋を爆破せんとして捕らわれ、ハルピンに於いて銃殺の刑に処せられた。享年40歳。至誠豪宕、真に国を思う烈士であったが、友情濃かに、キリスト教の信仰篤く、死に臨んで500両を露国赤十字社に贈った美挙の如きその博大なヒューマニズムの発露というべきであろう。(境内掲示より)
聖寿寺の周辺図
参考資料
- 「盛岡の寺院」(盛岡市仏教会)