東顕寺。岩手県盛岡市名須川町にある曹洞宗寺院
東顕寺の概要
曹洞宗寺院の東顕寺は、松峰山と号します。東顕寺は、出羽荘内出身の古山良空和尚が、水沢正法寺で悟りを開き、不来方で草庵を営んでいたところ、不来方城主福士五郎武田源氏政長の寄進を受けて一寺となし、松峰山東顕寺と称して古山良空和尚が開山したといいます。
山号 | 松峰山 |
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院号 | - |
寺号 | 東顕寺 |
住所 | 盛岡市名須川町2-1 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
東顕寺の縁起
東顕寺は、出羽荘内出身の古山良空和尚が、水沢正法寺で悟りを開き、不来方で草庵を営んでいたところ、不来方城主福士五郎武田源氏政長の寄進を受けて一寺となし、松峰山東顕寺と称して古山良空和尚が開山したといいます。
「盛岡の寺院」による東顕寺の縁起
開山・縁起
開創は至徳元年(一三八四) で、本寺は水沢市正法寺である。開山(古山良空和尚)は、出羽荘内の人で十九歳のとき教院に身を投じ、天台の止観を学べども疑い釈けず遂に禅門に入り、水沢市の大梅拈華山圓通正法寺の二世月泉良印禅師に師事し典座(修行僧の食事係)の役に身命を注ぎ弁道に励む。ある朝炉に柴を焚くの折、火星額に飛び負痛、忽然として大悟し、師の月泉禅師より印下証明を受ける。その後、師匠月泉の許可を得て正法寺を退き、至徳年間(一三八四~八七)に岩手郡の奇巌怪石の間に草庵を結び、ひたすら坐禅三昧に打ち込んでいた。当時、盛岡を不来方といい、不来方の館の主を福士五郎武田源氏政長といった。政長が草庵で黙々と坐禅をする良空和尚の道行に渇仰し、浄財を喜捨して一寺を建立し、良空和尚を請して開山となし、また当時廃寺であった寺の称号をとって松峰山東顕寺と称した。(「聯灯録」より)(「盛岡の寺院」より)
東顕寺所蔵の文化財
- 十一面観音菩薩坐像一体(盛岡市指定有形文化財)
- 大黒天立像一体(盛岡市指定有形文化財)
十一面観音菩薩坐像一体
寄木造の漆箔像で、肩幅と膝幅の比率も小さく、こじんまりとして相好は優しく、彫り口は大胆ですが、像容は整っており端正です。作風は京の七条仏師の流れをくむもので、江戸初期の制作と見られます。本来、この像は三ツ石神社の本地仏(神が仏の形をとって仮に現れた姿、権現)であり、歴史的な価値も高い作品です。(盛岡市教育委員会掲示より)
大黒天立像一体
一木造の素木造で、兜をかぶり右手に剣を持ち、左手に宝珠を載せて俵の上に立ちます。眉毛や顎髭は線刻で入れ、目も彫眼です。唐風の兜に剣を持つ型は古く、室町期を下らない制作と見られ、力強く雅到に富んでいます。不動大黒とも称されるこの期の大黒天像は、県内でも希少な作品です。(盛岡市教育委員会掲示より)
東顕寺の周辺図
参考資料
- 「盛岡の寺院」(盛岡市仏教会)