勢家春日神社。旧県社、別表神社
勢家春日神社の概要
勢家春日神社は、大分市勢家町にある神社です。勢家春日神社は、天平年間(729-749)に市川某が南都三笠山を勧請して創建したとも、貞観2年(860)に国司藤原朝臣世數が春日大社を勧請したとも伝えられます。建久年中(1190-1198)には大友能直が、仁治3年(1242)にはその子大友親秀が社殿を補修、笠和郷の宗廟とし80貫の社領を寄進されたといいます。天正15年(1587)に島津家久の侵入により社殿焼失したもののその後再建、慶長12年(1607)には藩主竹中重利が松10万本を海岸に植樹、寛永14年(1637)に藩主日根野吉明が流鏑馬など祭礼を復興したといいます。明治維新後の社格は県社、戦後別表神社に指定されています。
社号 | 春日神社 |
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祭神 | 武甕槌命、経津主命、天津児屋根命、姫大神 |
相殿 | - |
境内社 | 稲荷神社、弁天社、天満社、金比羅社 |
祭日 | 例祭4月13日、夏祭7月19日、秋祭10月19日 |
住所 | 大分市勢家町4-6-87 |
備考 | - |
勢家春日神社の由緒
勢家春日神社は、天平年間(729-749)に市川某が南都三笠山を勧請して創建したとも、貞観2年(860)に国司藤原朝臣世數が春日大社を勧請したとも伝えられます。建久年中(1190-1198)には大友能直が、仁治3年(1242)にはその子大友親秀が社殿を補修、笠和郷の宗廟とし80貫の社領を寄進されたといいます。天正15年(1587)に島津家久の侵入により社殿焼失したもののその後再建、慶長12年(1607)には藩主竹中重利が松10万本を海岸に植樹、寛永14年(1637)に藩主日根野吉明が流鏑馬など祭礼を復興したといいます。明治維新後の社格は県社、戦後別表神社に指定されています。
境内掲示による勢家春日神社の由緒
天平年中市川某が南都三笠山より勧請し奉ったとも又清和天皇の御宇貞観二年三月国司藤原朝臣世數が勅を奉じて奈良の春日大社の四所明神を勧請したとも伝えられ一千一、二百年余の歴史を有する古社である。建久七年間居城府内の総廟として厚く崇敬し特に二代親秀は社領八十貫を奉献する等歴代の守護職、藩主等は年々の祭祀料は年々の祭祀料は申すまでもなくしばしば社領を奉り又社殿の修復を行ってきた。因に大友親秀の奉献した車両菖蕪田、忌垣田、相撲田は今尚小字名などとなって語り伝えられている。慶長十二年藩主竹中重利は江戸参勤の帰途播磨灘に於て暴風雨のため危機にさらされたが遥かに春日宮に祈誓して無事に帰還し得たので境内に松拾万本を植えて奉賽した当時の広大なりし境域を偲ぶことができる。
当社は創祀以来二度戦災のために社殿はことごとく燃上し又貴重なる社宝、記録等をも亡失した。第一回は天正十二年島津軍の府内入城の際であり、次は昭和二十年七月大東亜戦争の末期アメリカ空軍の焼夷爆撃によるものである。
現社殿は氏子崇敬者の浄財、寄付金等を以って再建し、昭和四十二年十月十八日遷座祭を斎行した。
尚当社は旧県社であったが昭和四十三年七月一日別表神社に昇格した。(境内掲示より)
「大分市史」による勢家春日神社の由緒
古木鬱蒼として境内を蔽ひ幽逐にして頗る風致あり、一歩を海濱に徒せば一碧萬頃、眼界豁然として千里目を窮め漁舟白帆、煙霞沓靏の間に出没するあり、境内を春日公園と稱す、祭神は武甕槌命、天津兒屋根命、斎主命、姫大神の四座を祀る、境内には太子堂、辨財天、金比羅社、天満宮の四攝社あり、創始の傳記詳ならざれども天平中(聖武天皇の御宇)豊後守多治比眞人牛養、南都春日大明神の分霊を請ふて此地に斎祀したりとも、或は貞観二年(庚辰)三月(清和天皇の御宇)豊後の國司藤原朝臣世數南都宗社に請ひて勅許を得創めて祠を神宮寺浦の海岸に建つとも云ふ、是に依て此海濱を呼びて春日浦と呼ぶに至れり、鶴谷佐藤氏は其の著豊後史蹟考に善鳴録の誤を擧げて曰、『善鳴録に寛弘中、百合若鷹雄山神宮寺を建て賢如を請ふて焉に置くとあり、されば神宮寺は貞観を距る百四十五年の後建ちし寺なり、諸書神宮寺に建つとあるは、却て春日浦に神宮寺を建つと云ふべき順次なり、按ずるに善鳴録の説甚だ信じ難きものあり、神宮寺の如き、尚寛弘以前より在りし古刹並ん歟、又賢如律師を焉に置くと云ふに至りては、更に妄誕の甚だし気を知るなり、豊府紀聞云、賢如性加藤氏、筑前三笠郡人、年少投干興福寺云々、仁治三年大友親秀修神宮寺、請賢如律師爲開祖とあり、蓋し開祖とは中興ならん、然レバ、寛弘の時の賢如と二人ありし歟、眞逆然らざるべし、善鳴録の誤やしるべし云々』、建久年中大友能直其毀廢を修理し、仁治三年其子親秀又之を修補し、且賢如律師をして神宮寺の廢址を興さしめ、此に住して祭祀の事を掌らしむ、且つ社殿華表等を修復し笠和郷の宗廟とし八十貫の社領を寄進す今附近の田疇の名に角力田、瑞籬田等あり皆社田の遺址なり、天文廿三年十一月大友義鎮又修營したり、天正十五年薩軍豊府を陥れ火を祠殿に放つて烏有に歸せしめ社寶悉く焼失せり一書に云。
天正十五年薩兇亂入す四民東西に離散す春日祠の大宮司寒田左右衛門大夫鑑秀所在を失す(中略)、此時より永く斷絶す、鑑秀あ社内の寶器を携へ速見郡小浦に遁る、既にして四極山の洋中に至る風浪俄に起り舟殆んど覆らんとす、船首及び同舟の難を避るるもの皆云此舟中珍寶許多、恐らくは海神是を欲するか速に海中に投じて衆人の命を救ひ玉へと云へども左衛門大夫死を以て誓て從はず、然るに舟益危く擧舟の人皆怒に絶ずして左衛門大夫を殺害せんとす、爰を以て泣々寶器を海底に沈め船は恙く小浦に至る事を得たり云々。
慶長三年福原直高の當國守と爲るに及び之を興さんとして功未だ成らざるに改易せられ、同十二年城守竹中重隆京師に朝しての歸途播磨灘を過ぐる時會々颱風に遇ひ、怒濤驚興船将に覆らんとし、瞑雲四塞向ふ所を知らず、時に重隆遥かに本國の春日神社を祈念す、頃刻にして風止み濤静り船恙く歸國するを得たり、是に於てか重隆新たに社殿を造營し雅松十萬本を社内の海岸に植ゑ以て神社の加護に奉賽スト云ふ、現時の春日浦頭一帶に磯馴松の蓊鬱として白砂に映するものは即ち當時奉賽する所のものなり、寛永十四年八月城主日根野吉明、當社の廢れたる舊祭を興して五穀豊穣を祈らんとて國東郡竹田津の住人井上某を召して同年九月十七日祭祀を盛んにして流鏑馬を行はしめ且る大に社殿を修補したり。(「大分市史」より)
勢家春日神社の周辺図
参考資料
- 「大分県神社誌」 (大分縣大分市役所)