尋聲山来迎寺。大友氏第18代親治が寺院を建立
来迎寺の概要
浄土宗寺院の来迎寺は、尋聲山と号します。来迎寺は、大友氏第18代親治が寺院を建立して、文忠梵榮上人が文亀元年(1501)開基創建したといいます。境内も広壮で、1639年(寛永16)には府内城主日野吉明が熊本藩主細川忠利の接待に当寺を利用したといいます。
山号 | 尋聲山 |
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院号 | - |
寺号 | 来迎寺 |
住所 | 大分市錦町1-1-30 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
来迎寺の縁起
来迎寺は、大友氏第18代親治が寺院を建立して、文忠梵榮上人が文亀元年(1501)開基創建したといいます。境内も広壮で、1639年(寛永16)には府内城主日野吉明が熊本藩主細川忠利の接待に当寺を利用したといいます。
境内掲示による来迎寺の縁起
来迎寺
1501年(文亀元)に創建された浄土宗西山派の寺院です。開祖・文忠梵榮上人が仏道修行のために、諸国を巡った折に豊後国を訪れたところ、其の徳のすぐれた人望に深く感動した大友氏第18代親治が上人を府内町に引きとめて当寺を建立しました。それ以来500年以上この地にあります。戦国時代の府内を描いた「府内古図」と現在に残る地割から復原すると、大友館跡から約450m北に位置することがわかります。当時の海岸線は現在よりはるかに南で、古地図には来迎寺の北西に舟入が描かれています。
1688(貞享5)の火災のため、それ以前の来迎寺の姿についてはよくわかっていません。しかし、1699年(元禄12)に戸倉貞則が著したとされる「豊府紀書」(「豊府紀聞」)に夜と、この被災以前の来迎寺は広大で美しく、特に書院は黄金色の障壁画で飾られる見事なもので、1639年(寛永16)には府内藩主日根野吉明が熊本藩主細川忠利をもてなしたことが記されています。この記録は江戸時代の来迎寺の姿を描写したものですが、戦国時代もこのように壮麗な寺院であったと考えられます。(境内掲示より)
「大分市史」による来迎寺の縁起
尋聲山来迎寺
東新町萬壽寺の北隣にあり浄土宗西山派にして、洛北粟生野報國山光明寺に屬す、文亀元年文忠梵榮上人の開基にして上人は備後國尾道の人なり、幼にして聡明叡智なり佛教を信じて紀州總持寺に入って剃髪して文忠と號し浄土の密意を學び其他諸宗 佛典熟讀せずと云ふことなく、螢雪の功を積みて名譽都鄙に普く、諸洲を經回して當國に留錫し大友親世(十代)深く上人の道徳を慕ひ強いて此地に留め當寺を建立したり、豊薩軍記には天正十四年十二月十二日薩兇亂入し悉く兵火にかかると雖も當寺及び大智寺は其災を免るる云々、府内城主日野吉明の時(宅岸和尚の時)肥後侯歓待の記事を以て見れば當寺が如何に広壮なる大寺なりしかど推量するに難からざるなり、(「大分市史」より)
来迎寺の周辺図
参考資料
- 「大分市史」(大分縣大分市役所)