下野国一社八幡宮。源姓足利氏発祥之地、旧県社
下野国一社八幡宮の概要
下野国一社八幡宮は、足利市八幡町にある神社です。下野国一社八幡宮は、天喜3年(1055)に創建、前九年・後三年の役に際して源義家も参詣、その三男義国は足利に土着し足利氏の祖となっています。歴代武将の崇敬を受け、明治維新後は、明治6年郷社に、明治35年には県社に昇格していました。
社号 | 八幡宮 |
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祭神 | 誉田別命 |
相殿 | 大帶姫命、姫大神 |
境内社 | 門田稲荷神社、八坂神社 |
祭日 | 例祭4月10日 |
住所 | 足利市八幡町387 |
備考 | - |
下野国一社八幡宮の由緒
下野国一社八幡宮は、天喜3年(1055)に創建、前九年・後三年の役に際して源義家も参詣、その三男義国は足利に土着し足利氏の祖となっています。歴代武将の崇敬を受け、明治維新後は、明治6年郷社に、明治35年には県社に昇格していました。
「栃木県神社誌」による下野国一社八幡宮の由緒
八幡宮(旧県社)
天喜三年二月二十五日創立、後康平年中、源義家が奥州賊従追討を逐げ凱旋の時参詣した。その後、三男義国特に尊崇があつく、甲胃、田園若干の寄進があり以来足利尊氏、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康より御朱印を賜った。明治六年四月郷社に定められ、明治三十五年一月十一日県社に列格された。明治四十年一月十一日幣帛神饌料供進神社に指定された。昭和九年十一月十六日今上陛下より御幣帛料御奉納があった。(「栃木県神社誌」より)
源姓足利氏発祥之地
源姓足利氏発祥之地
八幡太郎義家は十一世紀後半の武将として夙に名高い。義家は下野守、陸奥守を歴任しながら、東国を足場にして、前九年・後三年の役という奥羽の二つの内乱を朝廷の命によるとはいえ、ほとんど独力で鎮定させている。まさに偉業というべきであろう。
この義家を父に中宮亮藤原有綱の女を母として生まれたのが源義国である。
京都で生まれ育った義国は久安六年(一一五〇)のある日、宮中に参内の途中、偶然にも当時右大将(のちに右大臣)藤原実能の行列に出合い争いをおこし、狼藉をしたということで、実能の従者らによって馬からうち落とされてしまった。これに怒った義国の郎徒が実能邸に押しかけ、邸を焼き払ってしまった。この事件で義国は勅勘をこうむり、下野国足利の別業(私領)にひきこもってしまった。この別業は父の義家から伝領された土地だったのであろう。
この別業ですごすこと数年、仁平四年(一一五四)、年老いて死期の近いのを悟った義国は出家し荒加賀入道と号し、翌年に没した。義国の足利在留はわずかな年月であったが、これが足利氏・新田氏の成立の発端となったのである。(以上、「近代足利市史」より抄出、一部加除)
この義国が下ってきた足利別業の地が一体、どこなのか。古来、諸方面から論議されてきたが、下野国一社八幡宮付近を宛てる説があり、かなりの可能性が高いといわれている。
時は流れ、義国の子の義康は足利氏の先祖として後白河天皇方に味方して活躍をとげ源姓足利氏発展に大きく貢献した。その子義兼は鎌倉御家人として将軍源頼朝を補佐して鎌倉幕府誕生に尽力した。
そして、この義兼の後胤に尊氏が輩出し室町幕府を築きあげ武家政治を推進したことは高く評価されなければならない。
茲に源姓足利氏の発祥地である下野国一社八幡宮の境内に記念碑を造立してこれを後世に永く伝えんとする次第である。
平成廿年十一月二十日
下野国一社八幡宮 総代会(境内石碑より)
下野国一社八幡宮所蔵の文化財
- 銅造鳥居一基(足利市重要文化財)
銅造鳥居一基
江戸時代後期、寛政四年(一七九二)銘の佐野天明鋳物師の合作で、近郷有志が献納したものである。諸所に江戸時代後期の特徴をよく残しており、左右両柱には、鋳物師導師慶歓の名のほか、寄付者三二九名が陰刻されている。
昭和四十二年九月十九日指定(境内掲示より)
下野国一社八幡宮の周辺図
参考資料
- 「栃木県神社誌」