長尾弁財天。足利市通の神社

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長尾弁財天。足利七福神の弁財天

長尾弁財天の概要

長尾弁財天は、足利市通にある神社です。長尾弁財天は、足利領主三代目の長尾景長が、近郊の景勝の地に弁財天を七社勧請、当社はそのうちの一社で、長林寺の池畔に鎮座していたといいます。明治維新後の神仏分離により当地へ遷座、足利七福神の弁財天となっています。

長尾弁財天
長尾弁財天の概要
社号 厳島神社
祭神 市杵島姫命、建御雷男命
相殿 -
境内社 -
祭日 旧4月初巳日
住所 足利市通6-3177
備考 -



長尾弁財天の由緒

長尾弁財天は、足利領主三代目の長尾景長が、近郊の景勝の地に弁財天を七社勧請、当社はそのうちの一社で、長林寺の池畔に鎮座していたといいます。明治維新後の神仏分離により当地へ遷座、足利七福神の弁財天となっています。

「栃木県神社誌」による長尾弁財天の由緒

厳島神社(旧無格社)
言い伝えによると、昔足利城主長尾氏は、弁財天の信仰あつく、近郊の景勝の地に七社をまつった。その一つが当社で、以前は市内西宮町、長林寺の池畔に鎮座してあったのを現在の地に遷座したものだという。年月その他は不詳である。(「栃木県神社誌」より)

境内掲示による長尾弁財天の由緒

足利七福神
弁財天長尾弁天
六丁目弁天は、足利領主三代目の長尾景長が、西宮の長林寺に祀ったものであり、長尾七弁天の一つとされている。その後、明治元年の神仏分離令により現在地に遷座し、厳島神社となった。以来地域の守護神として厚く敬神され、安芸の宮島を見学して、それを模した鳥居も奉納された。この地域は、水害。火災もなく、各家庭や町内が仲よく和合して人情も厚い。弁天様のおかげと深く信仰され清掃もみんなで行っている。弁天様は、水神・芸術の神であり、財宝利得をもたらす女神である。(境内掲示より)


長尾弁財天所蔵の文化財

  • 大山講の燈籠1基(足利市指定重要文化財)

大山講の燈籠1基

足利市通6丁目の厳島神社に所蔵されている木製立燈籠。
この燈籠は、飾り金具と屋根以外はすべて組み立て式の構造です。屋根は火袋の上に勾配のある銅板葺の仕上げで、箱棟中央には六角形の段亀甲に似た文様の煙抜きがみられます。妻飾りの懸魚には棕櫚の葉の彫り物、妻壁には鳳凰と麒麟の彫り物が付けられています。火袋は、四方に和紙を貼った四角い菱格子窓があり、妻側の一方に金具を取り付けた開口部を設けています。火袋上部には竜、下部には龜、木鼻には獅子の彫り物を付け、赤彩が施されています。中台は、周囲に縁を巡らし、四方に疑宝珠高欄を取り付けています。竿は角柱で、上部四方に立浪の彫り物を付け、基壇は簡略な組み物で受け止めます。竿正面には「奉献石尊大権現大天狗 小天狗」、背面には「慶應紀元元歳在乙丑六月吉辰本仲町」が刻まれており、この燈籠は慶応元年(1865)の製作であることがわかります。
足利では、江戸時代から昭和50年頃まで、織物の旦那衆を中心に「大山講」が組織され、神奈川県伊勢原市の大山阿夫利神社に参詣していました。本燈籠の竿の銘文「石尊大権現大天狗」は大山阿夫利神社の主祭神、「小天狗」は脇祭神を意味しており、足利における講数は明治初期の時点で、当時の足利郡、梁田郡を合わせ67講、講員戸数1800戸以上あったとされます。かつては大山阿夫利神社の例大祭にあたる7月27日前後に、各地の神社で常夜燈として燈籠が設置されていました。本燈籠もその一基で、昭和40年(1965)頃まで毎年7月14日から17日までの4日間、目抜き通り(現在の旧国道50号線、通6丁目の第一立花の前)に点灯していました。当時はこの他小形の燈籠が2基あったとされますが、現在はこの大型燈籠1基のみが伝わっています。
本燈籠は、風食や火に弱い木製燈籠としては状態が良く、細部意匠に優れた工芸品であり、また足利において大山講が盛んであったことを示す資料として貴重なものです。(足利市教育委員会掲示より)

長尾弁財天の周辺図


参考資料

  • 「栃木県神社誌」