赤坂鹿島神社。佐野市赤坂町の神社
赤坂鹿島神社の概要
赤坂鹿島神社は、佐野市赤坂町にある神社です。赤坂鹿島神社は、藤原秀郷公が鹿島神宮を勧請して天慶六年(943)天明山鹿沢城内の藤ヶ崎に奉祀、佐野安房守基綱が佐野春日山に遷座したといいます。寛永4年(1627)当地に遷座、明治5年村社に列格しています。
社号 | 鹿島神社 |
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祭神 | 健御雷命 |
相殿 | 大日孁貴命、伊弉那美命、豊受姫命 |
境内社 | 八坂神社、機織神社、秋葉神社、三峯神社 |
祭日 | 2月24日、7月15日、11月24日、4月3日 |
住所 | 佐野市赤坂町5 |
備考 | - |
赤坂鹿島神社の由緒
赤坂鹿島神社は、藤原秀郷公が鹿島神宮を勧請して天慶六年(943)天明山鹿沢城内の藤ヶ崎に奉祀、佐野安房守基綱が佐野春日山に遷座したといいます。寛永4年(1627)当地に遷座、明治5年村社に列格しています。
「栃木県神社誌」による赤坂鹿島神社の由緒
鹿島神社(旧村社)
天慶六年一一月一九日下野武蔵守藤原秀郷の勧請である。これより先、俵藤太秀郷下総の平将門を征伐の勅命を蒙ったので密に常陸の鹿島大神に祈願し、乞願わくば神護を得さしめ速に賊を亡し叡慮を安んじ奉れ、と一吉田い、遂に逆賊を平げた。その殊功を以て従四位下に叙せられ下野武蔵の両守に任ぜられる。秀郷ますます神霊の奇験を感じて鹿島本宮より当国佐野庄天明山唐沢域内の藤ヶ崎に奉還し田原家の軍守神と崇敬しその後佐野安房守基綱の代に佐野の庄春日山に移遷し後、慶長五年秀郷の末斎藤原信吉が徳川の命により春日山に築城していたとき、本社を天明郷三海に遷祀した。後寛永四年一一月一七日本国赤坂村字西小路に遷斎する。現今境内はこれであり。後寛文一一年本社再建、享保三年神位宗源宣旨を以て正一位を授けられ正一位鹿島大明神と称し爾来連綿として相承け明治五年に至り鹿島神社と改め年社に列せられる。(「栃木県神社誌」より)
境内掲示による赤坂鹿島神社の由緒
西暦九四三(天慶六年)十一月十九日
俵藤太秀郷のちの藤原秀郷公(下野武蔵守)、平将門(下総国)征伐勅命により、鹿島大神(常陸国)に戦勝祈願する。遂に勝利を治め、従四位下に叙せられ下野武蔵の両守に任ぜらる。秀郷公ますます神霊の奇験を感じ、鹿島本宮より、当国佐野の庄天明山鹿沢城内の藤ヶ崎に奉遷し、田原家の軍守神と崇敬し、その後、佐野安房守基綱の代に佐野の庄春日山(現城山公園)に移遷した。
西暦一六〇二年(慶長七年)
秀郷の末裔佐野信吉が徳川公の命により春日山に築城していたとき本社を天明郷三海に遷祀した。
西暦一六二七年(寛永四年)十一月十七日
赤坂村字西小路(現・佐野市赤坂町五番町)に遷祀し、以後今日の鹿島神社を中心として繊維産業が隆盛となり、赤坂町の発展へと繋がれ、氏子の人達から氏神様として信仰を集めている。
西暦一六七一年(寛文十一年)
本社再建
西暦一七一八年(享保三年)
神位宗源宣旨を以て正一位を授けられ正一位鹿島大明神と稱す。
西暦一八七二年(明治五年)
鹿島神社と改め村社に列せられ現在にいたる。(境内掲示より)
赤坂鹿島神社の周辺図
参考資料
- 「栃木県神社誌」