植下赤城神社。佐野市植下町の神社
植下赤城神社の概要
植下赤城神社は、佐野市植下町にある神社です。植下赤城神社は、豊城入彦命の孫、彦狭島王が任国毛野国に帰国の途中、景行天皇55年(4世紀)春日穴咋邑で薨去、彦狭島王を祀り奉斎したといいます。平将門討伐に際しては藤原秀郷が当社に祈願、当社を再建する際に上野赤城神社を合祀したことから赤城大明神と号して、上野赤城神社に比して当社を下の宮と称したといいます。明治9年村社に列格、明治42年大字植野字南馬場町八幡宮など8社を合祀しています。
社号 | 赤城神社 |
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祭神 | 彦狭島王命、日本武尊 |
相殿 | 武甕槌命、国常立命、譽田別命、市杵島姫命、大日孁貴命、素戔嗚命、菅原道真公、稲倉魂命、猿田彦命、豊斟淳命 |
境内社 | 白幡八幡宮、神明宮、厳島神社、織姫神社 |
祭日 | 10月17日、4月17日 |
住所 | 佐野市植下町430 |
備考 | - |
植下赤城神社の由緒
植下赤城神社は、豊城入彦命の孫、彦狭島王が任国毛野国に帰国の途中、景行天皇55年(4世紀)春日穴咋邑で薨去、彦狭島王を祀り奉斎したといいます。平将門討伐に際しては藤原秀郷が当社に祈願、当社を再建する際に上野赤城神社を合祀したことから赤城大明神と号して、上野赤城神社に比して当社を下の宮と称したといいます。明治9年村社に列格、明治42年大字植野字南馬場町八幡宮など8社を合祀しています。
「栃木県神社誌」による植下赤城神社の由緒
赤城神社(旧村社)
景行天皇五五年に、豊城入彦命の孫、彦狭島王が勅命を奉じて、沙本毘古を征伐し、乱を平げて賞を賜わり、任国毛野国に帰途するおり春日穴咋邑にて病のため薨じた。そのとき、東国の人民が悲しんで主の屍を毛野国伊保能の郷に奉葬し、塚を造り祠をたてて狭島大明神と称して崇敬した。その後、俵藤太秀郷が、平将門を討するおりに祈願して見事大任を果たしたので、家臣に命じてこの社の再建普請に着手し、天慶七年間畑一五町歩を寄付、さらに翌年竣工して遷宮し上毛野延喜式内社、赤城神社など祭神五柱の内日本武尊を勧請合祀し、狭山を改めて赤城大明神と号し、上毛野の宮を上の宮、当社を下の宮と称した。その後、武門武将の尊信厚く、田畑金穀朱印を賜ったこと数多く、宝氷三年宗源宣旨で正一位を賜わる。明治六年に郷社となり、同九年村社となる。二三年、官有地一二、四八〇坪余を社有地として無償譲与を受けている。
明治42年5月、大字植野字南馬場町八幡宮など8社合祀(「栃木県神社誌」より)
境内頒布の栞による植下赤城神社の由緒
景行天皇55年、豊城入彦命の孫彦狭島王命が、勅を奉じ沙本毘古の乱を平らげ賞を賜り、任国毛野国に帰途の途中、春日穴作邑に至り病にて薨った。その時、任国の民が悲しんで王の屍を密かに掘り出し、毛野国伊保野の郷に奉葬し塚を造り祠を立て、狭島大明神と称して崇敬した。
その後、田原藤太秀郷公が、平将門公の討伐を祈願して見事成就した。これをもって家臣大門・小野寺式部両人に祠再建普請奉行を命じた。
天慶7(944)年12月25日に免田畑15町歩を寄進し、翌天慶8年(945)年3月15日に竣工した。同25日に上毛野の延喜式内社である赤城神社より日本武命を勧請合祀し、狭島を改め赤城大明神と号し、上毛野の宮を上の宮、当社を下の宮と称した。(現在も周辺の地名を下の宮と称す)以降、武門武将の尊信が厚く、田畑金穀朱印を賜る事が多かった。宝永3(1706)年2月の宗源宣旨に正一位を賜った。
江戸中期、稲荷信仰で庶民の崇敬を集めた時期があり、社前鳥居の柱下部に稲荷の文様がある。明治6年に郷社となり、明治9年に村社となった。
現在の御社殿は江戸時代末期の文化文政時代に12年かけて建てられたものである。
御祭神彦狭島王命は、家内安全、地域鎮護、日本武命は、火防、盗難除け、宇賀之御魂神は、商売繁盛、家内安全の御神徳を有す。
明神造の青銅鳥居、神鈴は天明鋳物で出来ており佐野市指定文化財である。(景行天皇55年、豊城入彦命の孫彦狭島王命が、勅を奉じ沙本毘古の乱を平らげ賞を賜り、任国毛野国に帰途の途中、春日穴作邑に至り病にて薨った。その時、任国の民が悲しんで王の屍を密かに掘り出し、毛野国伊保野の郷に奉葬し塚を造り祠を立て、狭島大明神と称して崇敬した。
その後、田原藤太秀郷公が、平将門公の討伐を祈願して見事成就した。これをもって家臣大門・小野寺式部両人に祠再建普請奉行を命じた。
天慶7(944)年12月25日に免田畑15町歩を寄進し、翌天慶8年(945)年3月15日に竣工した。同25日に上毛野の延喜式内社である赤城神社より日本武命を勧請合祀し、狭島を改め赤城大明神と号し、上毛野の宮を上の宮、当社を下の宮と称した。(現在も周辺の地名を下の宮と称す)以降、武門武将の尊信が厚く、田畑金穀朱印を賜る事が多かった。宝永3(1706)年2月の宗源宣旨に正一位を賜った。
江戸中期、稲荷信仰で庶民の崇敬を集めた時期があり、社前鳥居の柱下部に稲荷の文様がある。明治6年に郷社となり、明治9年に村社となった。
現在の御社殿は江戸時代末期の文化文政時代に12年かけて建てられたものである。
御祭神彦狭島王命は、家内安全、地域鎮護、日本武命は、火防、盗難除け、宇賀之御魂神は、商売繁盛、家内安全の御神徳を有す。
明神造の青銅鳥居、神鈴は天明鋳物で出来ており佐野市指定文化財である。(境内頒布の栞より)
植下赤城神社所蔵の文化財
- 銅造鳥居
- 神鈴
銅造鳥居
明和六年(一七六九)天明の鋳工丸山善太郎毎昭(つねあき)と同甚太郎易親(やすちか)によって造られた稲荷鳥居である。市内では、一瓶塚稲荷神社の鳥居(国認定重要美術品)が同じ丸山一族の手による同形態のものである。
右柱には講中神主及び願主、左柱には鋳物大工の名前がそれぞれ刻銘されている。(佐野市教育委員会掲示より)
神鈴
この神鈴は、鈴のなかに小さい鈴が入った二重構造で、鈴の揺動により小さい鈴が動き、その音がこもって特有の音を発する仕組みになっているものである。明和八年(一七七一年)に製作されたもので、現存する天明鋳物師製作の神鈴としては、最も古い。天明鋳物師崎山五左右衛門藤原峯高円熟期の作品である。(佐野市教育委員会掲示より)
植下赤城神社の周辺図
参考資料
- 「栃木県神社誌」