栃木神明神社。栃木市旭町の神社

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栃木神明神社。室町時代に伊勢神宮を勧請、旧県社

栃木神明神社の概要

栃木神明神社は、栃木市旭町にある神社です。栃木神明神社の創建年代等は不詳ながら、室町時代中期に伊勢神宮を勧請して創建、応永10年(1403)に中興改築しているといいます。明治5年県社に列格、当社には天高くそびえる十本の千木があり、「十千木」と呼ばれるようになったことから、栃木県名発祥の地といわれております。

栃木神明神社
栃木神明神社の概要
社号 神明神社
祭神 天照皇大神
相殿 造化三神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)
境内社 須賀神社、恵比寿神社、大国主神社、魁稲荷神社、淡島神社、琴平神社、冨士浅間神社、市姫神社、愛宕神社、小御嶽神社、松尾神社、福寿稲荷神社
祭日 -
住所 栃木市旭町26-26
備考 -



栃木神明神社の由緒

栃木神明神社の創建年代等は不詳ながら、室町時代中期に伊勢神宮を勧請して創建、応永10年(1403)に中興改築しているといいます。明治5年県社に列格、当社には天高くそびえる十本の千木があり、「十千木」と呼ばれるようになったことから、栃木県名発祥の地といわれております。

境内掲示による栃木神明神社の由緒

神明宮は室町時代の中期、伊勢の神宮より御分霊をいただき創建された神社で「栃木のお伊勢さま」と称されております。御祭神の天照皇大神は、明るく強く生きる力を与えてくださる太陽の如く霊験あらたかなる神であります。
当社の御本殿にはその昔、天高くそびえる十本の千木があり「十千木」と呼ばれるようになったことから、県名発祥の地といわれております。
多くのみなさまが大神さまの広大無辺なる御加護のもと、幸せで健やかなる生活をお過ごしいただけますよう、年間を通して神事を行っております。(境内掲示より)

「栃木県神社誌」による栃木神明神社の由緒

当社は勧請の縁起は不詳であるが、中興改築の棟札に応永十年九月十六日(後小松天
皇の御宇)上棟とある、応永の頃皆川紀伊守の所領で、同家は藤原氏の系統なので、その後も尊崇する須賀の大神も祭祀したものである。
その後、近郷榎本城の支配を受けたが、天正年間豊臣秀吉、小田原征伐の時、城主榎本藤四郎は北条氏に属した宗家小山氏の落城と共に榎本城も残落したと旧記にある。
大字栃木域内に皆川家の支城あって、神明宿なる小字がある。これが当社の旧地である。それを、天正一七年正月一六日現地に正遷宮にしたものである。
当社は明治五年県社に列せられた。明治二七年申午春、伊勢皇大神宮御物中より、御衣、御裳帯外四点を当社に献備された。他にその例をみないといわれる。(「栃木県神社誌」より)

「下都賀郡小誌」にまつわる明治天皇勅使差遣

縣社神明宮
栃木町大字栃木小字旭町に在り、祭神天照皇大神、相殿は造化の三神にして別殿に須賀神社ありて素戔嗚命を祀る、勧請の因起詳ならず、中興改築の棟札に應永十年九月十六日上棟、天照皇大神須賀神社とあり、應永の頃皆川紀伊守の所領たり、同家は藤原氏の系統なるより其最も尊崇する須賀神社を相殿に祭祀せしものなるべし、本社の社家は黒宮薩摩守と稱し明治五年まで代々其職を襲へり、明治八年境内に神道中教印を設け本社を以て守護神とし造化の三守を合祭せり、後神道事務分局と改稱し學寮及講堂新設あり明治十五年皇典講究分所を事務分局内に併置し祭事は其局長たる從三位松平容保及早尾海雄青木幸躬にして社掌二人を置き執行せり明治五年縣社に列せられ、六年境内に於ける禁制の高札下賜せらる是れ寶に縣下の嚆矢なり、明治十六年本社再築に當り伊勢内宮の模型を以てし結構祟高典雅近郷其比を見ず、明治三十五年境内に連接して第二公園開設せられ、四時の眺望佳絶なり、内殿に神明宮と記せる徳大寺公爵の額面及佐々木侯爵秋月子爵巌谷一六居士の揮毫に係る拝殿の額面は金色燦爛として神徳に一段の光輝を添ふ、明治四十一年大字有土地を獻し現在九反一畝七歩の多きに及び社費は總て氏子の協議費を以て之に充つ、境内に皇太子殿下御慶事記念公園之碑及故本縣令藤川爲親及力士横綱綾川五郎次の三石碑あり、風光明媚にして参詣者常に絶ゆることなし(「下都賀郡小誌」より)


栃木神明神社の周辺図


参考資料

  • 「栃木県神社誌」
  • 「下都賀郡小誌」