多宝山福厳寺。足利七福神の布袋尊
福厳寺の概要
臨済宗妙心寺派寺院の福厳寺は、多宝山と号します。福厳寺の創建年代等は不詳ながら、当寺過去帳では康永2年(1343)に實道和尚が開創したといいます。一方言い伝えでは、藤原姓足利又太郎忠綱が、継母の子に家督を継がれそうになったのを、平重盛の仲裁により家督を相続できたことから、母の菩提、父俊綱の家臣桐生六郎豊綱の菩提の為に創建したといいます。足利七福神の布袋尊です。
山号 | 多宝山 |
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院号 | - |
寺号 | 福厳寺 |
本尊 | - |
住所 | 足利市緑町1-3270 |
宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
福厳寺の縁起
福厳寺の創建年代等は不詳ながら、当寺過去帳では康永2年(1343)に實道和尚が開創したといいます。一方言い伝えでは、藤原姓足利又太郎忠綱が、継母の子に家督を継がれそうになったのを、平重盛の仲裁により家督を相続できたことから、母の菩提、父俊綱の家臣桐生六郎豊綱の菩提の為に創建したといいます。
「足利市史」による福厳寺の縁起
福嚴寺
一位置
本市緑町一丁目、蓮臺寺山東麓に在り。多寶山と號す。本尊は、釋迦如来。建長寺末にして、現在は、第廿七世福山忠道なり。
二沿革
安徳天皇の壽永元年(紀元一八四二年)四月、足利忠綱(又太郎)本願に因り、理眞上人創建と傳ふ。されど、當寺の『過去帳』を檢するに、「祖師大覺禅師三世の法孫實道和尚、康永二癸未年(紀元二〇〇三年)開創。貞治元年(紀元二〇二二年)示寂す。」とあり。其の後堂宇久しく毀破につき、天保年中(紀元二四九〇-五〇四年)、東嶽和尚再建。大正六年、第廿六世文應和尚、本堂を瓦葺とし、其の他の建物に修理を加へ、大に境内の面目を改め、以て今日に至る。鐘樓・山門等は、明治の初年、廃佛毀釈のため、収壊されたり。檀徒百三十戸あり。
三子安觀音
世にいふ「坂の觀音」の本尊にして、當寺に保管せられ、午年の三月十八日には、觀音堂に移し、一週間の開帳ありて、盛大を極む。是れ足利上総介義兼の夫人が守本尊とせられしものにして、丈四寸五分、銀立像にて、小兒を抱く、四明道人の作と傳ふ。
(中略)
四境内
境内八百九十一坪あり。本堂の前、左の方に、延命地蔵堂あり。文應和尚の代、堂をつくる。此の地蔵尊は、今の公園入口にありし石地蔵にして、明治の初年、古老茲に安置すと。蓋し蓮臺寺關係のものなりしならむか。
五傳説
當寺の創建につき、次の傳説あり。
藤原姓足利又太郎忠綱、幼にして、母に死別す。繼母に二子あり。康綱・忠行といふ。繼母は、父俊綱に勸めて、康綱を相續者たらしめむとす。忠綱、家系一巻を手にして、小松内府重盛に訴ふ。重盛繼母の實家なる小山朝政を諭しゝかば、忠綱茲に初めて本意をとげ、母の菩提、かねては父俊綱が家臣桐生六郎豊綱のために横死したる供養の爲に當寺を建立せりといふ。(「足利市史」より)
福厳寺所蔵の文化財
- 木造釈迦如来坐像一躰(足利市指定文化財)
木造釈迦如来坐像一躰
福厳寺の本尊で、本堂中央の須弥壇上に坐しています。本体は檜材寄木造り、表面黒漆塗りで、眼には玉眼が入れられています。
本像の胸前には2舞の衣が表現され、左肩から右肩の一部にか衲衣(上の衣)を着け、右肩には右宗前から出した偏衫(下の衣)で覆われています。下半身には裙と呼ばれる布をまとっています。両手は禅宗寺院に多い禅定印(腹前で両手を重ねる印)を結び、両足は左足を上にして組む結跏趺坐(降魔坐)をあらわしています。
光背は蓮弁形の中央に二重円相をあらわし、雲形に透彫りされた周縁部に化仏5体をめぐらせています。
本像は、体の形や衣文の彫り方から、南北朝時代に臨済宗寺院の本尊として確立した院派仏師(平安時代の中頃以降組織化された仏師の一派)の作によるものと推定され、室町時代15世紀頃の作と考えられることから、中世の特徴をあらわす仏像として貴重な文化財です。(足利市教育委員会掲示より)
福厳寺の周辺図
参考資料
- 「足利市史」