法玄寺。栃木県足利市巴町にある浄土宗寺院

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帝釈山法玄寺。畠山義純創建、小林十郎左衛門再興

法玄寺の概要

浄土宗寺院の法玄寺は、帝釈山智願院と号します。法玄寺は、足利義兼の妻女北條時子が讒言により自害、北條時子(智願院殿)の菩提を弔うため、足利義兼の後妻の子足利義純(法玄大禅定門)が、鎌倉時代初期に真言宗寺院として創建したといいます。その後荒廃したものの、江戸時代に足利の代官となった小林十郎左衛門が浄土宗寺院として慶長11年(1606)に再興、慶安元年(1648)には寺領15石3斗の御朱印状を江戸幕府より受領しています。

法玄寺
法玄寺の概要
山号 帝釈山
院号 智願院
寺号 法玄寺
本尊 -
住所 足利市巴町2545
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



法玄寺の縁起

法玄寺は、足利義兼の妻女北條時子が讒言により自害、北條時子(智願院殿)の菩提を弔うため、足利義兼の後妻の子足利(畠山)義純(法玄大禅定門)が、鎌倉時代初期に真言宗寺院として創建したといいます。その後荒廃したものの、江戸時代に足利の代官となった小林十郎左衛門が浄土宗寺院として慶長11年(1606)に再興、慶安元年(1648)には寺領15石3斗の御朱印状を江戸幕府より受領しています。

境内掲示による法玄寺の縁起

当山の由来
鎌倉幕府を創設した源頼朝の妻政子の妹が、北條時子です。時子は足利義兼の妻で、足利の地に住んでいました。義兼が鎌倉に滞在した折時子は、側女の讒言により密通の嫌疑をかけられ自害しました。
義兼の後妻の子足利義純は、義理の母である時子の菩提のために寺院を建立することを決意し、当山が真言宗の寺として足利に創建されました。建立は、鎌倉初期(一二〇〇年前後)と推定されます。
時子の法号は智願院殿、義純の法号は法玄大禅定門でした。また義純の後妻は未亡人で、先夫の畠山重忠は帝釈天の化身との説がありました。そこで当山は帝釈山 智願院 法玄寺となりました。
当山は、戦乱の世を経て荒廃していました。江戸幕府が開かれ平和な世になると、足利では地元の有力者である小林十郎左衛門が代官となりました。十郎以左衛門は法玄寺の再興を決意し、慶長十一年(一六〇六年)当山を浄土宗の寺として再建しました。平成二十一年七月
浄土宗 法玄寺(境内掲示より)

「足利市史」による法玄寺の縁起

法玄寺(浄土宗)畠山義純創建
一位置
本市巴町、機神山の東南麓に在り。帝釋山智願院法玄寺と號す。上野國新田郡太田町大光院の末寺にして、本尊は阿彌陀如来なり。現住は第二十二世和田良順。檀家二百五十餘戸あり。
二沿革
古記録焼失したるを以て創建につき、詳細を知るを得ず。寺傳によれば「當寺は高蔵天皇の承安年中(紀元一八三一-四年)、足利上総介義兼の長子、新田岩松遠江戸守義純(畠山)の本願により、寂蓮社照譽芳陽和尚の開山なり」(取調書)といふ。されど附記の如く、義純が母時子菩提の爲。之を建立せしとすれば、建久七年(紀元一八五六年)以後ならざる可らず、又開山芳陽和尚とあるは、中興開山の誤ならむ。
義純の開基以後、文禄に至る四百年間に、盛衰あり。文禄に及んでは、荒廃、其の極に達したりしが、小林氏當寺の興隆に志し、慶長十一年(紀元二二六七年)、足利の地、幕府の直轄となるや小林重郎左衛門尉重信(藤原)代官となりて、此の地を治する傍、同十五年、遂に行基山と號し、堂宇を營造す。而して中興の開山を、寂蓮社照譽芳陽とす。即ち中興第一世なり。中興以前の僧圭は、不明なれど、眞言宗なりしが如く、中興以後、知恩院に屬し、浄土宗となりしならむといふ。
寛永五年(紀元二二八八年)、第三世信れん社單譽吟龍の代に、小林重郎左衛門及び其の息彦五郎は、族類菩提の爲に、巨鐘を鑄て、之を當寺に寄進せり。現今の鐘に左の銘あり。(銘文省略)
寛永六年、小林彦五郎は、父に繼いで、足利の代官となり、治世の傍、父子協力して當寺の興隆に盡せり。
後光明天皇の慶安元年(紀元二三〇八年)七月、義純開基の由緒により、朱印十五石三斗を賜はる。
寛文四年(紀元二三二四年)、當寺火災に罹る。乃ち小林氏及び檀徒協力して、本堂庫裡等を再建し、且つ舊鐘(寛永鑄造のもの)を改鑄して、鐘銘(前記の銘)幷に新鐘を刻す。現存の巨鐘是れなり。新銘左の如し。(新鐘銘文省略)
鐘銘は、足利學校第十世痒主龍派寒松、及び第十四世痒主久室元要の作なり。而して當寺檀那小林重郎左衛門尉は、前記せし如く、江戸幕府初期に於ける我が足利の代官にして、寒松の文名既に定論あり。尚銘文中、寛永五戌辰稔とあれば、寒松晩年の作なるをしる。(寒松、寛永十三年四月卒)
寶永二年(紀元二三六五年)、戸田氏足利を領してより、藩主在邑の折は、本供を以て、當寺に佛参するを例とし、又屡々遊詣せりといふ。
明治十八年三月十四日夜、本堂西北に方り、怪異の響あり。住職輪道は、本堂に到らむとせしに、猛火は既に炎々として、庫裡に迫る。『過去帳』を搬出せむとし、爲に足部に重傷を負ふ。檀徒岩崎恒太郎、先づ馳せつけ、『過去帳』の一部を拾収し、輪道を背負ひて、避難せしむ。此の怪火により、本尊を始め、殿堂・古記・什物一切、烏有に歸せり。
同年五月、庫裡を建造し、明治二十一年、本堂を營み、後、鐘樓を建つ。今や住持良順、檀徒と協力して、庫裡を修造し、墓地を整理し、以て境内の面目を一新せしむと務めつゝあり。(「足利市史」より)


法玄寺の周辺図


参考資料

  • 「足利市史」