慈福山高徳寺。足利尋常小學西校地
高徳寺の概要
真言宗豊山派寺院の高徳寺は、慈福山不動院と号します。高徳寺は、宥眞僧都が天和3年(1683)に開山、第11世宥壽大僧都の時に寺門興隆、宥壽大僧都は鑁阿寺内千手院の學頭職を務めたといいます。明治15年には足利尋常小學西校の校舎に供用されていたものの、明治31年に再建したといいます。
山号 | 慈福山 |
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院号 | 不動院 |
寺号 | 高徳寺 |
本尊 | - |
住所 | 足利市西宮町2825-1 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
高徳寺の縁起
高徳寺は、宥眞僧都が天和3年(1683)に開山、第11世宥壽大僧都の時に寺門興隆、宥壽大僧都は鑁阿寺内千手院の學頭職を務めたといいます。明治15年には足利尋常小學西校の校舎に供用されていたものの、明治31年に再建したといいます。
「足利市史」による高徳寺の縁起
高徳寺(眞言宗)もと八幡神宮寺末
一位置
慈福山不動院高徳寺は、本市西宮町に在り。新義眞言宗豊山派にて、大和國磯城郡初瀬町總本山長谷寺末。本尊は、不動明王なり。
二沿革
維新前は、足利郡山邊邑八幡神宮寺に屬す。現建築は、靈元天皇の延寶二年(紀元二三三四年)甲寅なり、新義眞言宗の宗祖興教大師(覚鑁上人)の法孫、宥眞僧都の創建せしものにて、宥眞は、靈元天皇の天和三年(紀元二三四三年)癸亥十一月、當寺にて、入寂せり。是を開山第一世となす。第二世賴音より宥傳・圓西・宥賢・慈空・壽海・榮壽・行壽・日秀の大徳あり。第十一世宥壽大僧都の時、寺門大に興隆し、鐘樓・梵鐘・半鐘等の新設あり。持寶院・東光寺等は、當時住職の兼務寺たり。宥壽、鑁阿寺内千手院の學頭職となり、其の後法系、光壽・勝順・宥晋を經て、明治初年より、足利郡小俣村鶏足寺住職田下憲尊僧正の兼務寺となる。明治十年、平井順意の住職となるや、同十五年九月より、足利尋常小學西校の校舎として、現本堂を使用す。當時の校長は、山崎彦八にして、在校生總て二百五名。初・中・高各科の養成を爲あし来りしが、明治二十六年二月、足利町會に於て、校舎新築の議決し、三十年七月竣工したるも、新校舎は、十月一日より、十一月十五日まで一府六縣聨合共進會の會場に使用せられしを以て、明治三十一年一月、漸く當寺より移轉せり、此の間實に十七年にして、寺堂大に毀朽し、信仰の道場とは見受け難きに至りしかば、現住大橋傳尊、大正八年、朝鮮布教の任を了へて歸住するや、鋭意力を復興に盡し、四年間に向拝所・位牌堂・廻廊等の新築、本堂の修理、前庭の埋立(百五十坪)・石垣百五十八間等の工事を竣成す。爲に境内の面目、全く更新せり。
本尊大聖不動明王は、鎌倉時代の作といふも、作者未詳なり。厨子は、破損せるため、大正九年四尺三寸の丸厨子を新調す。弘法大師木像・興教大師・聖観世音像二體・金無垢歡喜天王等あり。本堂西の小堂に共祀す。檀徒百餘戸あり。
庭前の石地蔵は、高さ六尺餘、「子育地蔵」として、参詣者多し。
三什寶
筆者不明の涅槃像軸物・大般若經折本六百巻鐡眼版等あり。大般若經は、延寶丁巳の年(五年・紀元二三三七年)、當寺信徒の寄附に係るものなり。(「足利市史」より)
高徳寺の周辺図
参考資料
- 「足利市史」