供養山三寶院。舜智上人開山
三寶院の概要
浄土宗寺院の三寶院は、供養山と号します。三寶院は、舜智上人が開山となり、延應元年(1489)に創建、足利家の帰依も多かったといいます。境内には足利五郎太藤原行国(大治元年1126年卒)の墓碑が残されています。
山号 | 供養山 |
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院号 | 三寶院 |
寺号 | - |
本尊 | - |
住所 | 足利市通7-3094 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
三寶院の縁起
三寶院は、舜智上人が開山となり、延應元年(1489)に創建、足利家の帰依も多かったといいます。境内には足利五郎太藤原行国(大治元年1126年卒)の墓碑が残されています。
「足利市史」による三寶院の縁起
三寶院(浄土宗)舜智上人開創
一位置
本市通七丁目東、山麓にあり。上野國新田郡太田町大光院の末寺なり。本尊は阿彌陀如来、現在は第廿七世采澤圓晁。檀家二百五十戸なり。
二沿革
寺傳に「當寺は、四條天皇の延應元年(紀元一八九七年)の創立に係り、開山は舜智上人なり。往古は、今の境内の前面にありしが、屡々火災に罹りしを以て、後西天皇の寛文二年(紀元二三二二年)、終に現地に移れり。又當寺は、中古足利家の歸依篤く、随ひて寄附物も多かりき。去れば什寶の多くは、(足利紋)の紋所あり」といふ。右記録等の存するものなく、堂宇また衰頽せしを、孝明天皇の嘉永五年(紀元二五一二年)二月、僧勇勤再建せり。
三什寶
田崎草雲筆の聖観世音(施彩)の大幅あり。
四墓碑
境内に、「正善寺殿、足利五郎太藤原行國、大治元丙年(紀元一七八六年)七月二十七日」と刻せる墓碑あり。近く足利初代市長川島平五郎墓碑また建設せらる。(「足利市史」より)
三寶院所蔵の文化財
- 足利五郎太藤原行国の墓
足利五郎太藤原行国の墓
藤姓足利氏は、平将門討伐の功績のあった佐野唐沢山城主藤原秀郷の子孫です。子孫の伊勢崎淵名城主藤原成行が天喜2年(1054)足利に入部、両崖山に城を築き、足利藤原氏が誕生しました。
成行は、足利大夫と呼ばれました。大夫は武士再興の五位の別称ですから、足利郡司だったと考えられます。嫡男成綱が早世したので、孫の家綱が成行の養子となり、足利大夫を継ぎました。
当時の継嗣相続は五位の位の家では、孫では相続が出来ぬ制度があったので祖父の養子となり、家督を継いだと思われます。
行国は「尊卑分派」によれば成行の弟行房の子となっていますが「藤原系図」によれば成行の5男で栗崎五郎太郎又は、足利五郎太郎と呼ばれました。
同書には「栗崎蓮台寺城主大治元年(1126)7月27日卒、正善院殿仁応行国」とも書かれています。
行国は、父成綱が早世し、幼くして家督を継いだ家綱が成長するまで、成行の後の足利郡司をつとめたと考えられています。足利五郎太と足利という地名を冠して呼ばれる時は、その他の棟梁を表していますから、一時期、足利藤原の棟梁で両崖山城主となり、家綱の成人により、譲って蓮台寺に隠居したと考えられます。昔の暖かい人間関係が浮かんで来るような行国の墓です。
足利藤原氏は源平合戦の時、平家に組したため、頼朝により滅ぼされました。(足利ロータリークラブ掲示より)
三寶院の周辺図
参考資料
- 「足利市史」