高岡山高平寺。関東三十三観音霊場
高平寺の概要
真言宗豊山派寺院の高平寺は、高岡山法幢院と号します。高平寺は、元慶元年(八七七)権大僧都宥栄が開山したと伝えられます。その後室町期から江戸期にかけて小俣の鶏足寺の法流を受け継ぎ真言宗に改め、江戸期には末寺18ヶ寺を擁する寺院だったといいます。関東三十三観音霊場20番です。
山号 | 高岡山 |
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院号 | 法幢院 |
寺号 | 高平寺 |
本尊 | - |
住所 | 栃木市岩舟町下津原1457−2 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
高平寺の縁起
高平寺は、元慶元年(八七七)権大僧都宥栄が開山したと伝えられます。その後室町期から江戸期にかけて小俣の鶏足寺の法流を受け継ぎ真言宗に改め、江戸期には末寺18ヶ寺を擁する寺院だったといいます。
「岩舟町の歴史」による高平寺の縁起
下津原の高岡山法幢院高平寺(真言宗豊山派)の開山は元慶元年(八七七)権大僧都宥栄であると称しているが、これからのち室町時代までのことは一切不明である。江戸時代には慈覚大師遺跡地の寺院として発展し、岩舟町に
医王山実相院(上岡)
医王山法泉院浄蓮寺(羽抜)明治十年廃寺
満寿山自性院(新里)廃寺
医王山千手院清水寺(下岡)廃寺
金剛寺(茂呂)廃寺
明星山不動院(下津原盥窪)
神明山正覚寺(畳岡)・・・これは新里の自性院末寺、高平寺からは孫寺にあたる。
などの末寺があり、その他藤岡・群馬県の邑楽郡等に存在したものをあわせれば十八カ寺におよんだ。
宝暦六年(一七五六)七月に作成した高平寺の手洗窪由来によれば、慈覚大師は
「此地ニテ産湯シ給ヒ当寺ニテ御成長ス」
といっているが、これはこの寺の建っているところという意味とおもわれる。この地に移ったの時代ははるかにおそく、この地に移ったも戦国時代末期のことである。
高平寺が真言宗に改宗したのは室町時代この寺の住持となった頼舜が小俣の鶏足寺空覚より慈猛流(密教の一派)をさずけられてからのことという。滝水寺古日記によれば、高平寺が真言宗に改宗したのは慶長(一五九六~一六一四)のはじめとあり、そこにも寺の歴史を探究するむずかしさが存在するが、とにかく戦国時代という大きな変動期を経て、そのような寺院の宗派の変化が生じたものであろう。
高平寺は小田原北条氏政・佐野宗綱の兵乱に焼失、ついで十四世成誉法印のとき、慈覚大師の遺跡地たる盥窪に移ったが、同寺は江戸時代にも寛保二年(一七四二)二月十八日、本堂・庫裡焼失、文化十年(一八一三)十一月六日、客殿・庫裡・土蔵等が焼失している。(「岩舟町の歴史」(岩舟町教育委員会)より)