満福寺。栃木県栃木市旭町にある真言宗智山派寺院

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教王山満福寺。鎌倉時代創建、栃木城築城に伴い移転、寺領5石の御朱印状

満福寺の概要

真言宗智山派寺院の満福寺は、教王山遍照光院と号します。満福寺は、朝海法印が、日光修験の砌太平山中薗部村の山麓に小堂を建てて弘長2年(1262)に創建したといいます。皆川氏の栃木城築城に伴い天正年間当地へ移転、徳川家康の関東入国後の天正19年(1591)には、徳川家康が当寺にて休息、寺領5石の御朱印状を受領しています。文久二年の本陣火事に伴い全焼、近年復旧を遂げ、山号を山号院号を改めています。

満福寺
満福寺の概要
山号 教王山
院号 遍照光院
寺号 満福寺
本尊 -
住所 栃木市旭町22-27
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 -



満福寺の縁起

満福寺は、朝海法印が、日光修験の砌太平山中薗部村の山麓に小堂を建てて弘長2年(1262)に創建したといいます。皆川氏の栃木城築城に伴い天正年間当地へ移転、徳川家康の関東入国後の天正19年(1591)には、徳川家康が当寺にて休息、寺領5石の御朱印状を受領しています。文久二年の本陣火事に伴い全焼、近年復旧を遂げ、山号を山号院号を改めています。

境内掲示による満福寺の縁起

当山はもともと当地薗部村の山麓にあって薗部山地蔵院満福寺と号したが、現在地に移って教王山遍照光院満福密寺(通称満福寺)と改号した。真言宗智山派に属す。
ご本尊は大日如来(金剛界)。他に開運大師をはじめ厄除け三鬼尊・子授け観音・縁結び歓喜天・子育て水子地蔵尊などを祀る。
開創は弘長二年(一二六二)。洛南醍醐寺報恩院の学僧憲深和尚の弟子朝海法印が、日光修験の砌太平山中薗部村の山麓に小堂を建て、天下泰平・万民豊楽の祈祷を行ったことに始まる。
寺暦によれば、豊臣秀吉公治世の天正年間皆川城主皆川広照公の栃木城及び城下町造営の際、東の木戸の守衛を兼ね現在地に移る。天正十九年十一月、関東八州の領主となった徳川家康公が鷹狩りの折に当山にて休息。住持の応接にすこぶる満悦し朱印五石を賜る。以来寺勢大いに振い、本堂のほか大門・御成門・多宝塔・大師堂・薬師堂・不動堂・稲荷社・聖天堂・三鬼堂・大書院・住房が、広い境内に建ち並ぶ大伽藍を擁した。しかし幕末文久二年、当地の大火(本陣火事)により壮麗を誇った堂宇がことごとく灰燼に帰した。以後住持のいない時期もあったが、明治の中頃越中砺波郡から来た泰純和尚が晋住して復興に着手。しかし折からの廃仏毀釈の影響やたびたびの戦争によって復興は思うにまかせず、民家風の仮本堂兼客間兼庫裡一宇にとどまったまま戦後もしばらく推移した。
然るに昭和四十九年ようやく復興の機運を得て百年ぶりに本堂が再建され、昭和六十年には客殿・住坊が完成。そして平成二十三年開創七百五十年に合わせ新本堂(大毘盧舎那殿)が建立され、同時に駐車場及び境内も大規模整備されて現在に至る。(境内掲示より)

「栃木市史」による満福寺の縁起

満福寺(薗部山地蔵院)真言宗智山派
弘長二年(一二六二)僧朝海が薗部に開山したが、山号もそれに由来する。
天正十年(一五八二)十一月、徳川家康から朱印地五石を栃木郷のうちに寄進されたと伝えるが、この年紀は皆川広照によって、薗部の地から現在地に移された年代であり、朱印地を与えられた年代は天正十八年か、十九年のことだったと思われる。(「栃木市史」より)


満福寺の周辺図