崇福山泉福寺|下赤塚小学校開校地、豊島八十八ヶ所霊場
泉福寺の概要
真言宗智山派寺院の泉福寺は、崇福山と号します。泉福寺の創建年代は不明ながら、大堂にある歴応3年(1340)4月鋳造の梵鐘の銘文中に「泉福寺」の名があることから鎌倉時代には既に創建していたいいます。明治9年には下赤塚小学校が当地で開校しています。豊島八十八ヶ所霊場23番札所です。
山号 | 崇福山 |
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院号 | - |
寺号 | 泉福寺 |
住所 | 板橋区赤塚6-39-7 |
本尊 | 不動明王 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 豊島八十八ヶ所霊場23番札所 |
泉福寺の縁起
泉福寺の創建年代は不明ながら、大堂にある歴応3年(1340)4月鋳造の梵鐘の銘文中に「泉福寺」の名があることから鎌倉時代には既に創建していたいいます。明治9年には下赤塚小学校が当地で開校しています。
新編武蔵風土記稿による泉福寺の縁起
(下赤塚村)泉福寺
眞義真言宗、上石神井村三寶寺末祟福山と號す、本尊不動、村内彌陀堂大伽藍たりし頃は、當寺眞福寺と兩別當たりと云今かの堂にかくる暦應の鐘銘に、彼兩寺前朝全盛之時所建古招提と見えたり、(新編武蔵風土記稿より)
板橋区教育委員会掲示による泉福寺の縁起
ご本尊は不動明王、宗派は真言宗智山派崇福山泉福寺と号す。
開山は不明ですが、大堂にある歴応3年(1340)4月鋳造の梵鐘の銘文中に「泉福寺」の名があるので、鎌倉時代には創建されていたと思われます。その後の寺暦については不明ですが、明治5年(1872)の「新義真言宗本末一派寺院明細帳」に「第47世住職英尊」とあり、明治初年まで47人の住職を数えたことがわかります。
明治9年6月29日には、公立の下赤塚学校がある本寺を借りて開校し、旧上赤塚村の清涼寺にあった石成学校と合併して明治24年10月に赤塚小学校が誕生するまでの約15年間、ここで授業が行われていました。
本寺に伝わる十一面観音立像は、天和元年(1681)7月に下赤塚村の名主春日伊兵衛が寄進したもので、平成3年度板橋区の指定文化財となりました。
境内には、鎌倉時代から室町時代までの板碑が十六基立ち並んでいます。なお、本寺は豊島八十八ヶ所霊場の第23番札所となっています。(板橋区教育委員会)
いたばしの寺院による泉福寺の縁起
現在重文となっている大堂の鐘銘に明らかな如く暦応3年(1340)には、既に本寺は建立され相当な構えの古寺であったと推定される。世代の項で前述したごとく、その後のことは明らかにしない。現在は本山を京都東山の智積院とするが、戦前は上石神井村の三宝寺の末寺であった。本尊不動明王を安置し、専ら加持祈祷の祈願寺として、法灯を持続した。(いたばしの寺院より)
泉福寺所蔵の文化財
- 泉福寺十一面観音立像(板橋区文化財)
泉福寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「いたばしの寺院」