薬王山龍福寺|小豆沢地名の由来、豊島八十八ヶ所霊場
龍福寺の概要
真言宗智山派寺院の龍福寺は、薬王山東光院と号します。龍福寺は、室町時代末に袋村(現北区岩淵町)の真頂院の僧運珍が隠居寺として創建したといわれており、建長7年(1255)以降の数多くの板碑や、小豆沢地名由来の伝承が残されています。江戸時代には南照山興隆寺、閻魔堂、教性院を末寺に擁していました。豊島八十八ヶ所霊場86番札所です。
山号 | 薬王山 |
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院号 | 東光院 |
寺号 | 龍福寺 |
住所 | 板橋区小豆沢4-16-3 |
本尊 | 大日如来 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | 龍福寺会館 |
備考 | 豊島八十八ヶ所霊場86番札所、板碑寺、小豆沢地名由来の伝承 |
龍福寺の縁起
龍福寺は、室町時代末に袋村(現北区赤羽)の真頂院の僧運珍が隠居寺として創建したといわれており、建長7年(1255)以降の数多くの板碑や、小豆沢地名由来の伝承が残されています。江戸時代には南照山興隆寺、閻魔堂、教性院を末寺に擁していました。当寺薬師堂の本尊薬師如来は、当寺北側の御手洗池から出現したと伝えられています。
板橋区教育委員会掲示による龍福寺の縁起
ご本尊は大日如来。宗派は真言宗智山派。薬王山東光院龍福寺と号しています。
本寺は、室町時代末に袋村(現北区赤羽)の真頂院の僧運珍が隠居寺として創建したのに始まるといわれています。その後の寺暦について詳細は不明ですが、19世紀初頭の「新編武蔵風土記稿」に末寺として興隆寺や教性院があげられているので、この頃には寺勢いを誇る寺となっていたことがわかります。
本寺に伝わる「薬師縁起」には、薬師堂に祀られている薬師如来が天長年間(824-834)に台地下の七々子崎と呼ばれる荒川の入り江で発見されたことや、小豆沢の地名が、平将門への貢物を積んだ舟がここで沈み、その際積荷の小豆が流出したことに由来していることが書かれています。
本寺には、かつて二十余基の板碑があって、板碑寺とも呼ばれていましたが、先の大戦の空襲で、その多くが破損し、現在では昭和58年度に板橋区の指定文化財となった建長7年(1255)の板碑など7基が残るだけです。
なお、当寺は豊島八十八ヶ所霊場の第86番札所となっています。(板橋区教育委員会掲示より)
いたばしの寺院による龍福寺の縁起
室町末期に袋町の真頂院の住職運珍和尚が隠居寺として創建したのが始まりと伝えられる。世代の項で述べたごとく、只今のところ由緒沿革は明らかにされていない。
しかし本寺は由緒の深い寺であることは、文化文政の新編武蔵風土記稿に記載があり、平将門を伝える薬師縁起の伝承、現存する建長の板碑等からも十分に推察される。(いたばしの寺院より)
新編武蔵風土記稿による龍福寺の縁起
新編武蔵風土記稿巻之十四豊島郡之六(小豆澤村)
小豆沢村は、往昔荒川の入江に傍て七々子崎と唱へし湊なり、平将門東国を押領せし頃、貢物の小豆を積来りし舟、この江に沈みしかは此名は起これりと「龍福寺薬師縁起」に見えたり。
龍福寺
新義眞言宗、袋村真頂院の末、薬王山東光院と號す、本尊大日、別に不動を安す、共に運慶の作、世代の内看尊正保四年十二月廿四日寂すと云ひこの外のことを傳へず、客殿の軒に明和四年鑄造の大鐘をかく、什寶に乗鞍一掛あり、境内薬師佛と同時水中より得しと破損せるさまいと古色なり、鐙もありし由今は失へり、
薬師堂。寺記に云、天長年中當所は七々子崎と云入江なり、江中夜々光を放つ依て此の像を得て安置せり、其出現せし池と云は境内の後背にて今は御手洗となれり、(新編武蔵風土記稿より)
龍福寺所蔵の文化財
- 龍福寺建長7年(1255)板碑(板橋区指定文化財)
- 小豆沢貝塚(板橋区指定文化財)
龍福寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「いたばしの寺院」