宝樹山西光寺|豊島八十八ヶ所、板橋七福神の布袋尊
西光寺の概要
真言宗豊山派寺院の西光寺は、宝樹山盛徳院と号します。西光寺は、当地の大野清右衛門が観音堂に田畑を寄進して堂宇を建設、宥音(承応3年1654年寂)・或いは大阿閣梨権大僧都法印覚印(慶安4年1651年寂)が開山となり創建したといいます。近くにあった苗代地蔵が当寺に安置されています。豊島八十八ヶ所霊場の80番、板橋七福神布袋尊です。
山号 | 宝樹山 |
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院号 | 盛徳院 |
寺号 | 西光寺 |
住所 | 板橋区大谷口2-8-7 |
本尊 | 正観音像 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 豊島八十八ヶ所霊場80番札所、板橋七福神布袋尊、大谷口幼稚園併設 |
西光寺の縁起
西光寺は、当地の大野清右衛門が観音堂に田畑を寄進して堂宇を建設、宥音(承応3年1654年寂)・或いは大阿閣梨権大僧都法印覚印(慶安4年1651年寂)が開山となり創建したといいます。近くにあった苗代地蔵が当寺に安置されています。豊島八十八ヶ所霊場の80番、板橋七福神布袋尊が祀られています。
板橋区教育委員会掲示による西光寺の縁起
御本尊観世音菩薩。宗派真言宗豊山派。宝樹山盛徳院と称する。
古くからこの地にあった一観音堂に大野清右衛門が田畑を寄進し、堂宇を建設したことから始まるという。「新編武蔵風土記」では、開山を承応3年(1654)8月寂の宥音とするが、当寺所蔵の古文書では、開山を慶安4年(1651)6月寂の覚印とする。いずれにしても、当寺が1640年代には開山されていたことは明らかである。
明治3年住職広沢賢隆は、境内に一棟を建てて寺子屋を開設し、同9年に上板橋学校が開設されるまで近所の子供に教育をおこなった。
昔話で有名な、しろかき地蔵(石造・高47cm)は、現在は同寺境内に安置されている。同地蔵は、昭和62年度の板橋区登録有形民俗文化財(信仰)に認定された。(板橋区教育委員会掲示より)
いたばしの寺院による西光寺の縁起
伝える所によれば寛永のころ、古よりこの地にあった一観音堂を住人の大野清右ヱ門なる者が、境内田畑を喜捨して堂宇を建設したのが西光寺の始めという。本寺所蔵の文書に依れば、開基は寛永20芙未年(1643)6月24日没の覚雲宗意信士と慶安3庚寅年9月27日没の覚雲寿照信女とし、開山は慶安4辛卯年6月24日寂の大阿閣梨権大僧都法印覚印と伝えるが、新編武蔵風土記稿には開山を承応3年(1654)8月寂の宥音としている。時代的にほほほ一致しているので、本寺は1650年代には立派に存在していたことは、明かである。享保11年(1726)に中野宝仙寺より亮栄が差遣されてから、本寺の基礎面目が一新した。地蔵坂の地蔵堂、向原の宝性院、弥生町の万福寺は本寺の末であった。
明治3年頃、住職広沢賢隆が境内に一棟を建てて寺小屋を開設したが、同9年上板橋学校開設に依り閉じた。江戸時代には大谷口氷川神社の別当寺であり、本堂近くには墓はなく両墓制をとっていたようである。大谷口氷川神社近くの傾斜地にあった伝説の「苗代地蔵」は現在、本寺の本堂に安置する。(いたばしの寺院より)
新編武蔵風土記稿による西光寺の縁起
(上板橋村)西光寺
新義真言宗多摩郡中野村宝仙寺末、宝樹山盛徳院と号す。本尊正観音、開山宥音承応3年8月寂す。(新編武蔵風土記稿より)
西光寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「いたばしの寺院」