見次山延命寺|見次権兵衛が創建、豊島八十八ヶ所、北豊島三十三ヶ所
志村延命寺の概要
真言宗豊山派寺院の志村延命寺は、見次山松寿院と号します。志村延命寺は、大永4年(1524)に志村城が落城した際、見次権兵衛が庭先でわが子の討たれる姿を見て、戦国の無情を感じ、居宅を寺として創建したと伝えられます。江戸時代には熊野神社の別当となっていた他、享保年間には将軍家御膳所となっていたといい、明治21年には志村村役場が当地に置かれていました。豊島八十八ヶ所霊場22番、北豊島三十三ヶ所霊場24番札所です。
山号 | 見次山 |
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院号 | 松寿院 |
寺号 | 延命寺 |
住所 | 板橋区志村1-21-12 |
本尊 | 地蔵菩薩 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 豊島八十八ヶ所霊場22番、北豊島三十三ヶ所霊場24番札所 |
志村延命寺の縁起
志村延命寺は、大永4年(1524)に志村城が落城した際、見次権兵衛が庭先でわが子の討たれる姿を見て、戦国の無情を感じ、居宅を寺として創建したと伝えられます。江戸時代には熊野神社の別当となっていた他、享保年間には将軍家御膳所となっていたといい、明治21年には志村村役場が当地に置かれていました。
板橋区教育委員会掲示による志村延命寺の縁起
新義真言宗見次山松寿院と号し、創建は大永年間と伝えられる。大永4年(1524)、北条氏綱は江戸城を攻め、城を逃れて江戸へ向った上杉朝興は、その途上、志村城下で追討にあい、その際志村城もこの巻き添えとなった。
城主篠田五郎の家臣・見次権兵衛は庭先でわが子が討たれる姿をみて、戦国の世の無情を感じ、居宅を仏寺として自らが開基となった。
当寺は江戸時代将軍家お鷹狩りの小休所となり、御座所・御成門も構えられていた。境内には巨大な「こぶ」のあることから属に「こぶ欅」と呼ばれた。昭和6年に天然記念物に指定されたが、近年枯死したため指定は解除され、今は樹幹のみが保存されている。
また、区内最古の建長板碑と、属に切支丹灯籠といわれるマリア像を形どった地蔵像を刻んだ灯籠一基がある。(板橋区教育委員会掲示より)
いたばしの寺院による志村延命寺の縁起
寺の縁起に伝えて言う、大永4年(1524)小田原北条氏綱が江戸城より川越城へ逃げる上杉朝興(扇谷)を追い、ここで戦となった時、志村城が落城した。その時城主と言われる篠田五郎の家臣に見次権兵衛という者があった。権兵衛は庭先で子息の権太郎の討死するを見て無常を知り、自分の邸宅を寺として延命寺を創建し、自ら開基になったという。享保中徳川吉宗がこの辺で鷹狩の際、当寺に成られて御成門・腰掛等設けたが安永の頃取払われたという。江戸時代には熊野神社の別当となり、明治21年の町村制の折は、志村外7ケ村合併した志村役場が置かれた。その後明治36年3月の火災の時、鐘楼・山門を残して総べての堂字を焼失し、仏像・宝物・古文書類等一切を失ってしまった。(いたばしの寺院より)
新編武蔵風土記稿による志村延命寺の縁起
新義真言宗、多摩郡中野村宝仙寺末
見次山松寿院と号す、本尊三尊の弥陀なり、又毘沙門天聖徳太子弘法大師の三躯を置、何れも弘法大師の作と云、寺伝に拠に、往昔篠田五郎と云者当所に在城の頃、家臣見次権兵衛此北に居住す、其後宅地を捨てて当寺をここに建立し、己が氏を以て山号銘すと云、鐘銘にも彼が建立の由見ゆ、草創の年代詳ならず、世内の内頼信慶長18年寂せしを旧しとす、享保年中此辺放鷹の頃、当寺へ成らせられし故に、御腰掛御成御門等を設られしか、安永の頃御取掃となれり、されど此辺御放鷹の頃は今も御膳所となれり、門前に老槻樹あり四囲許、鐘楼天明八年正月の再鋳なり、見次権現社開基見次権兵衛の霊を祀れり。
地蔵堂、延命寺持(新編武蔵風土記稿より)
延命寺所蔵の文化財
- 建長4年(1252)銘板碑
- 隠れ切支丹灯籠
- コブ欅
延命寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「いたばしの寺院」