智清寺|板橋区大和町にある浄土宗寺院

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龍光山智清寺|北豊島三十三ヶ所

智清寺の概要

浄土宗寺院の智清寺は、龍光山恵照院と号します。智清寺は、応永年中(室町時代初期1394年頃)見誉上人智清によって創建されたと伝えられます。天正19年(1591)徳川家康により寺領5石を寄進された御朱印寺です。北豊島三十三ヶ所霊場17番札所です。

智清寺
智清寺の概要
山号 龍光山
院号 恵照院
寺号 智清寺
住所 板橋区大和町37-1
本尊 愛染明王
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 北豊島三十三ヶ所霊場15番札所



智清寺の縁起

智清寺は、応永年中(室町時代初期1394年頃)見誉上人智清によって創建されたと伝えられます。天正19年(1591)徳川家康により寺領5石を寄進された御朱印寺です。

いたばしの寺院による智清寺の縁起

応永年中(室町時代初期1394年頃)に浄土宗智清(見誉。永享12年3月15日寂)によって創建されたと伝えられるが、以後約二百十数年間は杳として明らかでない。寛永の頃から歴世が明らかになっている。天正19年11月御朱印領5石を賜る。天明4年(1784)に火災にかかり寺記すべて焼失し事暦が明らかにされていない。明治5年(1872)の中用水の水騒動の時は、本寺に多数の農民がたてこもった。境内には「木下稲荷」が祀られてある。 (いたばしの寺院より)

新編武蔵風土記稿による智清寺の縁起

(下板橋宿)智清寺
同宗同末(浄土宗芝増上寺末)龍光山惠照院と號す、御朱印寺領五石は天正十九年十一月賜はれり、本尊彌陀、開山見譽智清、永享十二年三月十五日寂す、檀越名主市左衛門が先祖某、法號大善院圓譽月宗道元は、故領主板橋信濃守忠康が子なりといふ、此人寛永三年六月朔日死す、寺記天明四年の火災に烏有となり其餘の事歴詳ならず、
鐘樓。寛永八年鑄造の鐘なり
稲荷社。木下稲荷又藤吉稲荷とも呼ぶ、神體白狐に乗し状にて本地十一面観音なり、相傳ふ元和三年五月大坂籠城の浪士高松半平と云ふもの此像を護持し来りて寓居す、幾程なく死に臨みて住僧法譽輪宗に此像を授て其由緒を語る、其大略は太閤秀吉出身以前よりの守護神にて、大坂城内に在しを落城の頃に奉じ出したると云、斯て半平翌四年八月三日死し、法名靈鑑院義忠と號す、其後輪宗此社を境内に造り秀吉の初名をとりて社に名つくと云、 (新編武蔵風土記稿より)

板橋区教育委員会掲示による智清寺の縁起

御本尊阿弥陀如来。宗派浄土宗。龍光山恵照院と称する。
室町時代初期、見誉上人智清によって創建されたと伝える。天正19年(1591)徳川家康により寺領5石を寄進された御朱印寺である。
境内には、板橋上宿の名主板橋市左衛門家歴代の墓碑や、明治初年前田家下屋敷払い下げに活躍した小松了従の墓碑、そして明治の歌人相沢朮の墓碑などがある。
山門前にある正徳4年(1714)の石橋は、江戸から大正時代に使用された中用水に架けられたもの。中用水は、農業用水として石神井川の水を分水したもので、明治5年板橋町と下流の上十条村以下7ヶ村との間で配水を巡って争い、板橋の農民が当寺に立てこもった。同石橋は、昭和60年度の板橋区登録文化財(史跡)に認定された。(板橋区教育委員会掲示より)


智清寺所蔵の文化財

  • 智清寺の石橋(板橋区登録文化財)
  • 雪廼舎相沢朮の墓

雪廼舎相沢朮の墓

雪廼舎相沢朮の墓
文政8年(1825)年越後国六日町の医者石川有節の長男として生まれる。幼名は富蔵、諱は高尚、後に玄英、周碩と改める。医術を江戸の大久保東渓や成田宗信に、蘭学を大阪の六人部右衛門に学ぶ。弘化3年(1846)年三河国西尾藩主松平乗全の測医相沢良安の養子となり、その娘扇子と結婚して江戸に住む。後に家督を継いで湛庵と改める。明治元年西尾に移り、明治3年朮の名を藩主乗秩より賜る。
朮は文学を好み、漢学を江戸の前田観海、桑名の森樅堂に、和歌を井上文雄、加藤千浪、佐々木弘綱に学ぶ。明治9年東京に移り、医を開業するかたわら和歌を楽しむ。明治20年板橋町に居を構えると医を離れ、門人への和歌の指導に専念する。
明治37年5月28日逝去。享年81歳。親族の眠る智清寺に埋葬される。法名は修徳院仁誉高尚居士。(板橋区教育委員会掲示より)


智清寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「いたばしの寺院」