若宮八幡宮|旧若宮村の鎮守
若宮八幡宮の概要
若宮八幡宮は、葛飾宇四つ木にある神社です。若宮八幡宮は、文治年間(1185-1190)源頼朝が奥州征伐に向かう際に戦勝を祈願、無事勝利した後に戦勝を感謝して創建したといいます。その後江戸時代には、関東郡代伊奈備前守が再興、若宮村の鎮守社であったといいます。
社号 | 若宮八幡宮 |
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祭神 | 応神天皇 |
相殿 | - |
境内社 | 田中稲荷神社 |
住所 | 葛飾区四つ木3-10-1 |
備考 | 旧若宮村の鎮守 |
若宮八幡宮の由緒
若宮八幡宮は、文治年間(1185-1190)源頼朝が奥州征伐に向かう際に戦勝を祈願、無事勝利した後に戦勝を感謝して創建したといいます。その後江戸時代には、関東郡代伊奈備前守が再興、若宮村の鎮守社であったといいます。
新編武蔵風土記稿による若宮八幡宮の由緒
(若宮村)若宮八幡社
村の鎮守なり、相傳ふ当社は右大将頼朝文治五年泰衡征伐として奥州に発向の時、軍功あらんことを祈願し手つから榎の策をさかしまに挿、此行利あらんには此木必生ひ栄ふへしと誓ひしに、果して勝利の後枝は盛に生ひ茂り今の世まても社頭に残れり。よりて別当寺を榎木山(註:善福院)と号すと云。又当時社前に篁ありて朝露多く行事の輩鐙の袖を汚せしかは、頼朝鐙をもて露を拂ひ今より後竹の長さ是より高かるましとありしに、後年果たてかの誓の如く篁ひきくなれり。依て是を鐙摺の竹と号する由社傳に載たれと、今は篁の蹟たに残らず、云々、頼朝凱旋の後社頭ことごとく建立ありて荘厳美を盡せしに、年歴て再建修理等中絶し空く狐狸の住家となりしを、御入国の後伊奈備前守中興すと云。されと其後朽損して建替しにや今は僅に本社のみを存せり。近き年まて西新井総持寺住職佑厳寛文四年に筆せし当社再興の記ありて、鎮座の由来等委く載たりしか今は失へり。又隅田村百姓五郎作といふ者の宅地は当社の旧地にて、寛政年中其所より古の神体なりし石を掘出せりとて彼か宅地におけり。前面に幡上八幡宮文治二年□月□日大将軍頼朝、裏面に幡奉行金麻呂判官元茂安西兵衛光造と彫れり。此事別当寺等には傳へさる処なれと、当村は彼村よりの分郷なれは理あるに似たり。今の神体は坐身長一尺許例祭八月十五日。
末社稲荷社。(新編武蔵風土記稿より)
若宮八幡宮の周辺図