思惟山正受院|上野王子駒込辺三十三ヶ所
正受院の概要
浄土宗寺院の正受院は、思惟山浄業三昧寺と号します。正受院は、不動即我の密法を修していたという僧学仙房(弘治3年1557年寂)が、霊夢によって武蔵国に来てこの寺を創建したと伝えられています。上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場4番札所、北豊島三十三ヶ所霊場23番札所です。
山号 | 思惟山 |
---|---|
院号 | 正受院 |
寺号 | 浄業三昧寺 |
住所 | 北区滝野川2-49-5 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
正受院の縁起
正受院は、不動即我の密法を修していたという僧学仙房(弘治3年1557年寂)が、霊夢によって武蔵国に来てこの寺を創建したと伝えられています。
北区文化財案内による正受院の縁起
思惟山正受院浄業三昧寺といい、浄土宗に属し、本尊は阿弥陀如来像です。弘治年間(1555-58)大和国に住み不動即我の密法を修していたという学仙房という僧が、霊夢によって武蔵国に来てこの寺を開いたと伝えられています。(新編武蔵風土記稿)
本堂の向かって左側手前に、近藤守重甲冑姿石像があります。これは、もと石神井川の洞窟の中にあったもので、明治のはじめ、今の場所に移されたものといわれています。近藤守重(1771-1829)は江戸時代後期の北地探検家で、通称重蔵、寛政10年(1798)松前蝦夷地御用となり、数回にわたり千島方面を探検しました。この石像は、近藤守重が文政5年(1822)から9年まで、友人であった滝野川の地頭野間正順の領地内、正受院東隣に文庫を建て、滝野川文庫と名付けて自らもここに住んでいたとき、これを作ったとされています。(滝野川町誌ほか)
この本堂の裏側は、不動の滝跡です。「新編武蔵風土記稿」は、この滝について「病者ツトイ来テ浴セリ」と記しています。
この寺は、「赤ちゃん寺」として有名です。(北区文化財案内より)
新編武蔵風土記稿による正受院の縁起
(滝野川村)正受院
浄土宗芝増上寺末、思惟山三昧寺と號す、弘治年中大和國宇多郡龍門の奥功曾久と云所に學仙坊と云僧住し、不動即我の密法を修する事年あり、靈夢を得て當國に来りて當寺を草創せり、其年たまたま洪水ありて砌の川中より弘法大師作の不動を得たり、其後又旅僧来て一軀の不動を授けしもの今堂中に安置する處なり、學仙坊は弘治三年三月四日寂す、其墳墓庭の小山の上にありて五輪塔なり、其後寂阿了山と云僧堂舎を再建す、文禄三年九月三日圓譽光道本堂再建の棟札あり、本尊阿彌陀は行基の作にて坐身長二尺五分此餘惠心作の彌陀像一軀を置。
撞鐘。古鐘なりしか文政三年改鑄すと云。
不動堂。弘法大師作の立像を置。
観音堂。西國札所第四番観音の寫と云。
瀧。本堂の脇峽下にあり病者つとい来て浴せり。(新編武蔵風土記稿より)
不動の滝
不動の滝跡
不動の滝は、泉流の滝とも称され、正受院本堂裏の峽から坂道を下った石神井川の岸にありました。「江戸名所図会」は、この地の江戸時代後期の景観を次のように説明しています。
正受院の本堂の後、坂路を廻り下る事、数十歩にして飛泉あり、滔々として消壁に趨る、此境ハ常に蒼樹蓊鬱として白日をささえ、青苔露なめらかにして人跡稀なり、
室町時代、大和国に学仙坊という不動尊の祈祷を修行する僧侶がいた。ある時、霊夢を見て東国の滝野川の地を訪れ、庵をむすんで正受院を草創した。この年の秋、石神井川が増水したが、水の引いた川から不動の霊像をすくいあげた。学仙坊は、これを不動尊修法の感得した証と喜び、滝の傍に安置したと伝えられます。不動の滝は、滝の傍に不動尊が祀られていたことから付けられた名称ですが、今も、その跡が僅かに偲ばれます。(北区教育委員会掲示より)
正受院の周辺図