三田春日神社|港区三田の神社

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三田春日神社|武蔵国国司藤原正房卿が任国の際に勧請

三田春日神社の概要

三田春日神社は、港区三田にある春日神社です。三田春日神社は、武蔵国国司藤原正房卿が天徳2年(958年)に任国の際、藤原氏ならびに皇室外戚の氏神なる大和国奈良春日大社の御神霊を目黒区三田(目黒春日神社)に勧請、天文年間(1533-1555)当地へ遷座したといいます。明治5年村社に列格、平成6年赤羽稲荷神社を境内に遷座したといいます。

三田春日神社
三田春日神社の概要
社号 春日神社
祭神 天児屋根命
相殿 -
境内社 福徳稲荷神社、新明社、赤羽稲荷神社
祭日 例祭日9月9日
住所 港区三田2-13-9
備考 旧村社



三田春日神社の由緒

三田春日神社は、武蔵国国司藤原正房卿が天徳2年(958年)に任国の際、藤原氏ならびに皇室外戚の氏神なる大和国奈良春日大社の御神霊を目黒区三田(目黒春日神社)に勧請、天文年間(1533-1555)当地へ遷座したといいます。明治5年村社に列格、平成6年赤羽稲荷神社を境内に遷座したといいます。

東京都神社名鑑による三田春日神社の由緒

天徳二年(九五八上巳春)、武蔵国国司藤原正房卿任国の折、藤原氏ならびに皇室外戚の氏神なる大和国奈良春日大社の御神霊を勧請鎮座。当時、武蔵国荏原三田邑にあって土地の人びとより大いに崇敬され、その後、建仁三年(一二〇三)仏教隆盛に伴ない、当社にも十一両観音(弘法大師作)の尊像を安置、神仏相まって繁栄し神徳四辺に輝き渡ったと伝える。天文年間(一五三三-五五)荏原目黒三田より、港区三田高台の今の地に遷座する。上野に寛永寺が建立されてより、東叡山末妙禅院が別当となり、三笠山神宮寺と称し僧侶がこれを司ることになった。代々天台宗を継承し、神仏ともにますます繁栄し、ことに江戸府内唯一の春日社として、代々徳川将軍の尊崇厚く、江戸城登城の諸大名も崇敬深く、九月九日の例祭は重陽の節句として、たいせつな儀式として春日社も大いに賑わい、大名等も白木の三宝に熨斗と菊花一枝を添えて奉献、終えて直会に菊酒を汲む神事が執行され、老幼男女の参拝も多く、江戸名物の一つとして、徳川末期まで盛んであったという。当代、戦前の建物はすべて欅造りで、彫刻のみごとなことはその道の範といわれていたが、惜しくも戦禍により焼失。また藤原五摂家各家の尊崇厚く、氏子区域を現在、港区三田二丁目、三丁目、四丁目、五丁目、芝三丁目、芝五丁目、目黒三田一丁目、二丁目とする。(東京都神社名鑑より)

「芝區誌」による三田春日神社の由緒

春日神社 三田一丁目
祭神 天児屋根命
創建年月は詳かでないが、村上天皇の御宇天徳年間に武蔵國司藤原正房が在任の際、氏神たる大和國奈良春日神社の御神靈を今の目黒區三田(目黒春日神社)に勧請したと傳へられてゐる。其後現在の地に遷座し、文化三年の大火災に全焼し、間もなく再興したのが現在の社殿である。明治五年十一月村社に指定された。月次祭は毎月九日である。
寶物に御曼荼羅軸物壹幅、公爵三條實美公自筆壹巻、一運斎國年畫大額壹面がある。
氏子區域 三田一、二、三、四丁目、同朋町、四國町、綱町、豊岡町、松坂町、老増町、君塚町、三田臺町一、二丁目、三田臺裏町、目黒区三田、以上十五箇町。(「芝區誌」より)

合祀した赤羽稲荷神社について

赤羽稲荷神社(無格社)飯倉町五ノ四八
祭神倉稲靈命、大祭四月十七日。延寶三年三月の鎮座に係り、往古より高野山寶性院末の延命院が別當職として奉仕してゐた。明治七年一月より熊野神社の兼務となり同四十二年一月九日稲荷の上に赤羽を冠する現社號が許可された。(「麻布區史」より)


三田春日神社の周辺図

参考資料

  • 東京都神社名鑑
  • 「芝區誌」
  • 「麻布區史」