烏森神社|江戸三森、藤原秀郷勧請の伝承
烏森神社の概要
烏森神社は、ニュー新橋ビル裏手の賑やかな飲食店街内にある神社です。烏森神社の創建年代は不詳ですが、平将門が叛乱を起こした際に、征討軍藤原秀郷が勧請したとも、そのときには既に神社があり戦勝祈願したとも伝えられます。享徳4年(1455年)古河公方足利成氏が戦勝祈願した祈願状は現存しているといいます。江戸時代には、柳森神社・椙森神社とともに江戸三森の一社と称されていました。
社号 | 烏森神社 |
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祭神 | 倉稲魂命 天鈿女命、瓊々杵尊 |
相殿 | - |
境内社 | - |
住所 | 港区新橋2-9 |
備考 | 江戸三森の一社 |
烏森神社の由緒
烏森神社の創建年代は不詳ですが、平将門が叛乱を起こした際に、征討軍藤原秀郷が勧請したとも、そのときには既に神社があり戦勝祈願したとも伝えられます。享徳4年(1455年)古河公方足利成氏が戦勝祈願した祈願状は現存しているといいます。江戸時代には、柳森神社・椙森神社とともに江戸三森の一社と称されていました。
境内掲示による烏森神社の由緒
烏森神社縁起
御祭神 倉稲魂命 天鈿女命、瓊々杵尊
平安時代天慶3年(約1000年前)に平将門が東国で叛乱を起こしたとき 征討将軍藤原秀郷が当社に戦勝を祈願したとも このとき勧請したとも伝えられている。室町時代の享徳4年(約500年前)には室町幕府の関東管領で古河公方と云われた足利成氏は、当社に戦勝祈願した。その祈願状は今日も当社に宝物として伝えられている。
江戸時代は稲荷信仰により祭礼も2月初午の日に執行せられ、稲荷祭としてその賑わいは江戸で一二を争うものであった。
明治以降は5月4・5・6日を祭日とし、夏祭りのはしりとしてその名をうたわれている。
当社殿は伸びゆく新橋の地にふさわしい近代建築美の中に、神社本来の伝統を加味し昭和46年12月、氏子の熱意により竣工をみたものである。(烏森神社境内掲示より)
「芝區誌」による烏森神社の由緒
烏森神社 新橋二丁目
祭神 倉稲魂命、瓊々杵尊、天鈿女命。
もと烏森稲荷と稱した。朱雀天皇の天慶二年、藤原秀郷が平将門追討の時、自己の封彄中で景勝の緑樹地帯を選び、稲荷の神靈を勧請したのに起源すると傳へられてゐる。
天正十八年北條氏没落の時、兵焚に罹って、寶物、舊記等は悉く焼けてしまった。其後再營の時、櫻田神社(其祭神は不明、天照大神、埴山姫命、大山祇命とも言ふ)を合祀したが、遂に舊時の壮観を偲ぶ事は出来なかつた。明治五年十一月村者に列し、明治中期以後、烏森藝者屋の發展に伴つて賽者多く、神社の維持は宜しきを得て、大正の大震災に炎上したが直ちに再興した。けれども震災後社地を擴張し得ず、境内は頗る狭隘である。
什寶に有名な鰐口(「下河邊行平建之。元暦元年甲辰□月吉」と刻してある)、足利氏書、宗近及び長船太刀一振づつ、飯村光重作神鏡一面がある。
氏子區域 新橋一、二、三丁目、田村一、二、三、四丁目、備前町、南佐久間町一、二丁目、田村町。
朱雀天皇天慶年中、藤原秀郷綿房州發向のとき、武州におゐて祈願せしに、白狐白羽の矢をくはへ来て秀郷にあたふ。此矢をもって東夷をしつめしにより、社を造立せんとす。ある夜狐来ていふ、神烏のむらがる所靈地也との教にしたがひ、社地をもとむるに、櫻田の郷にひとつの森あり。これ尋たる所の靈地なりと、社を建立ありしと也。烏森とは神烏のむらかりたる所によって號たるなるへし。
などと舊記にあるが、それは素より傳説である。(「芝區誌」より)
東京都神社名鑑による烏森神社の由緒
天慶三年(九四〇)に、平将門が東国で叛乱を起こしたとき、征討将軍藤原秀郷が当社に戦勝を祈願したとも、このとき勧請したとも伝えられている。室町時代享徳四年(一四五五)には、室町幕府の関東管領、古河公方といわれた足利成氏は戦勝を祈願し、その祈願状は今日も社宝として伝えられている。当社が隆昌におもむいたのは、振袖火事に類焼をまぬかれてからで、神威高大と、霊験は日をまして現われていった。祭礼は、稲荷信仰にしたがって、二月初午の日で幸橋御内外、二葉町海岸の旅所に神輿の神幸があり、氏子町は、山車踊り、練物等を出し、稲荷祭として、その賑わいは江戸で一、二を争うものであった。明治以降社名は烏森神社に、祭礼は五月四・五・六日に改め、夏祭りのはしり、鳥森祭としてその名をうたわれている。二月初午の日を稲荷祭とすることは、今も同じで「杉の葉守」の神符を授与している。(東京都神社名鑑より)
烏森神社の周辺図
参考資料
- 東京都神社名鑑
- 「芝區誌」