柳森神社|江戸三森の一
柳森神社の概要
柳森神社は、長禄2年(1457)、太田道灌公が江戸城の鬼門除けとして、多くの柳をこの地に植え、京都の伏見稲荷を勧請したことに由来します。江戸時代には商売繁盛の神として非常に賑わい、柳町小柳町元柳町向柳町柳原河岸などと当神社に由来する町名がありました。椙森神社、烏森神社と共に江戸三森の一社と呼ばれました。
社号 | 柳森神社 |
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祭神 | 倉稲魂大神 |
相殿 | - |
境内社 | 金比羅宮、秋葉大神、明徳稲荷、福寿神 |
住所 | 千代田区神田須田町2-25-1 |
備考 | 椙森神社、烏森神社と共に江戸三森の一つ |
柳森神社の由緒
柳森神社は、長禄2年(1457)、太田道灌公が江戸城の鬼門除けとして、多くの柳をこの地に植え、京都の伏見稲荷を勧請したことに由来します。江戸時代には商売繁盛の神として非常に賑わい、柳町小柳町元柳町向柳町柳原河岸などと当神社に由来する町名がありました。椙森神社、烏森神社と共に江戸三森の一社と呼ばれました。
境内掲示による柳森神社の由緒
今を去る五百余年の昔この東京が武蔵野の原と称し足利時代の頃長禄2年(1457)太田道灌公江戸築城の時その東北方即ち此所に城郭鎮護鬼門除けとして京都伏見稲荷大明神を勧請して御祀り申し上げ神田川土堤一帯に柳の木を多数植え繁茂したるに依り柳原の名と共に柳森神社の起源となった其の後江戸城を中心に年を追って江戸八百八町は繁栄しこの柳森神社も商売繁盛の神として非常に賑わいを極めたのである。元禄と文政の頃には徳川家より社殿造営の寄進があり其の造営物は大正12年9月の関東大震災にて惜しくも烏有に帰した。尚其頃迄には柳町小柳町元柳町向柳町柳原河岸などと柳に因んだ町名のあったことも此の柳の森より起因したものである。
昭和30年が当神社創建500年祭に相当するので崇敬者の発願に依って祈念事業として此の神楽殿を建立し同年5月15日楽慶大祭を執行した次第である。
例大祭は毎年5月14日15日。昭和36年5月吉日(柳森神社境内掲示より)
東京都神社名鑑による柳森神社の由緒
江戸城の東北柳原の総鎮守神で、往昔武蔵野であった。長禄二年(一四四八)太田備中守持資道滞在城の節、城廓鬼門除けのため数多の柳をこの辺方十町四方の地に植えられた。広原の森に、京都伏見の稲荷大社を勧請分詞鎮座し、神号を柳森と号し奉る。江戸繁栄の都となり、万治二年(一六五九)仙台公神田川堀割の節、外廓の堤を築き、広原の柳を移し植えて柳原堤と称し、御殿整備し、この地に移した。元禄年間(一六八八-一七〇四)幕府作事方社殿を造営する。「柳森いなり、結構成就す」と『武江年表』にあり、旧地は向柳原という神田川北岸にあって、柳屋舗といわれる。古地図にその名を記し、川の両岸町家となり、舟運の便よく米穀商・木材商の集まるところとなる。二月上午日祭典方十町を氏子とし配札を許された。また道潅本丸在城の節、戊亥のかた竹橋御門内鼠穴という地に勧請せられ(鼠穴吹上御庭の辺)、神号を金亀山龍の口稲荷長禄二戊寅年創立された社を、享保三年(一六一八)柳森稲荷社へ合祀遷座した。このとき幕府御作事方社殿修復をされた。関東大震災にいっさいを失う。昭和五年復興する。このとき焼失の社殿は元禄時代の建物。昭和五年十一月復興事業完成する。(東京都神社名鑑より)
柳森神社の周辺図