田村銀杏稲荷大明神|港区新橋の神社

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田村銀杏稲荷大明神|田村右京大夫建顕上屋敷跡地

田村銀杏稲荷大明神の概要

田村銀杏稲荷大明神は、港区新橋にある神社です。田村銀杏稲荷大明神は、地元有志により2004年に祀られるようになったといいます。当地は江戸時代に奥州一之関藩主・田村右京大夫建顕上屋敷があったといい、屋敷内で吉良上野介義央に対して刃傷に及んだ浅野内匠頭が切腹、切腹した屋敷の庭には大イチョウがあったこものの、関東大震災で被災して大イチョウは切り倒され、切り株の上に「田村銀杏稲荷大明神」があったといいます。その「田村銀杏稲荷大明神」も第2次世界大戦で焼失してなくなっていたといいます。

田村銀杏稲荷大明神
田村銀杏稲荷大明神の概要
社号 田村銀杏稲荷大明神
祭神 -
相殿 -
境内社 -
住所 港区新橋4-28
備考 -



田村銀杏稲荷大明神の由緒

田村銀杏稲荷大明神は、地元有志により2004年に祀られるようになったといいます。当地は江戸時代に奥州一之関藩主・田村右京大夫建顕上屋敷があったといい、屋敷内で吉良上野介義央に対して刃傷に及んだ浅野内匠頭が切腹、切腹した屋敷の庭には大イチョウがあったこものの、関東大震災で被災して大イチョウは切り倒され、切り株の上に「田村銀杏稲荷大明神」があったといいます。その「田村銀杏稲荷大明神」も第2次世界大戦で焼失してなくなっていたといいます。

境内掲示による田村銀杏稲荷大明神の由緒

浅野内匠頭終焉の地
日比谷通の新橋4丁目交差点脇の歩道に、内匠頭が切腹した場所を示す『浅野内匠頭終焉之地』の石碑が建っています。この辺りは奥州一之関藩主・田村右京大夫建顕(たむらうきょうたいふたけあき)の上屋敷があった場所です。
内匠頭は、1701(元禄14)年3月14日、江戸城松の廊下で刃傷沙汰を起こした後、田村邸に預けられ、将軍綱吉の裁断により即日切腹となりました。上野介を討ち取れなかった無念の思いを詠んだという時世の句「風さそう花よりもなほ我はまた 春の名残をいかにとやせん」はあまりにも有名です。
切腹を遂げた庭は、実際は石碑の建つ場所よりも東寄り、日比谷通と新橋赤レンガ通りとの中間あたりにありました。塀の外側には切腹の場を見ていただろうという大イチョウがそびえていましたが関東大震災で焼失。その後危ないので切り倒され、その切り株の上に『田村銀杏稲荷大明神』が祀られていました。当時忠臣蔵を演じる歌舞伎役者が必ずお参りに見えたそうです。しかしそれも第2次世界大戦で焼失の憂き目に遭い、姿を消してしまいました。
それから半世紀以上を経て、都の環状2号線(マッカーサー道路)が旧田村邸跡を切り裂く様に通ることが決まり、再開発によって新橋の古い街並みや家屋が次々に壊されていく中、由緒あるこの地の歴史に伝えようと04年2月、地元有志によって田村邸の庭先の一角に『田村銀杏稲荷大明神』が復活しました。幅わずか1mほどの小さな社ですが、忠臣蔵ゆかりのいちばん新しい史跡として、これからも四十七士の忠義を伝えていくことでしょう。(境内掲示より)


田村銀杏稲荷大明神の周辺図

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