水野監物邸跡|赤穂浪浪士自刃の地
水野監物邸跡の概要
水野監物邸跡は、港区芝にある東京都指定旧跡です。水野監物邸跡は、三河岡崎藩水野家芝三田屋敷の一部跡地で、吉良邸討入りを果した赤穂浪四十七士のうちの九人が預けられた邸跡です。赤穂浪士のうち間重治郎光興、奥田貞右衛門行高、矢頭右衛門七教兼、村松三太夫高直、間瀬孫九郎正辰、茅野和助常成、横川甚平宗利、三村次郎左衛門包常、神崎與五郎則休の九名が預けられ、当地で自刃したといいます。

名称 | 水野監物邸跡 |
---|---|
みどころ | - |
区分 | 旧跡 |
住所 | 港区芝5-20-20 |
備考 | - |
水野監物邸跡
水野監物邸跡は、三河岡崎藩水野家芝三田屋敷の一部跡地で、吉良邸討入りを果した赤穂浪四十七士のうちの九人が預けられた邸跡です。赤穂浪士のうち間重治郎光興、奥田貞右衛門行高、矢頭右衛門七教兼、村松三太夫高直、間瀬孫九郎正辰、茅野和助常成、横川甚平宗利、三村次郎左衛門包常、神崎與五郎則休の九名が預けられ、当地で自刃したといいます。
東京都教育委員会掲示による水野監物邸跡について
水野監物邸跡(東京都指定旧跡)
この地は赤穂事件で、吉良邸討入りに加わった大石内蔵助良雄ら四十七人のうちの九人が預けられた三河岡崎藩水野家芝三田屋敷の一部である。水野家は、のちに天保の改革を主導する水野忠邦を輩出した譜代大名の名門の家柄で、水野監物忠之(一六六九〜一七三一)は、第四代藩主である。元禄十四年(一七〇一)三月浅野内匠頭長矩の吉良上野介義央に対する殿中刃傷事件の折りには、幕命により鉄砲洲の赤穂藩邸(中央区明石町の聖路加国際病院)に赴き混乱を防いだ。
同十五年(一七〇二)十二月十五日元赤穂藩士たちのお預けが決まると、直ちに江戸詰藩士百五十余人と留守居小川九郎右衛門を請取人として仙石伯耆守邸(港区虎ノ門二の八)に遣わした。間重治郎光興、奥田貞右衛門行高、矢頭右衛門七教兼、村松三太夫高直、間瀬孫九郎正辰、茅野和助常成、横川甚平宗利、三村次郎左衛門包常、神崎與五郎則休の九人は、この屋敷へ収容された。翌十六年二月四日幕府の裁きにより九人は、この屋敷で自刃し、武士の本懐を遂げた。
水野家は細川家とともに元赤穂藩士の取扱は丁重で世評もよく、「細川(越中守綱利)の水の(水野監物)流れは清けれど、ただ大海(毛利甲斐守綱元)の沖(松平隠岐守定直)ぞ濁れる」という落首がその状況をよく伝えている。(東京都教育委員会掲示より)
水野監物邸跡の周辺図
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