平河山浄土寺|平河町で創建、山の手三十三観音霊場/h1>
浄土寺の概要
浄土宗寺院の浄土寺は、平河山源照院と号します。浄土寺は、明蓮社教誉上人聖公和尚(文亀3年1503年寂)が開山となり平河(千代田区)に創建、寛文5年(1665)当地へ移転したといいます。山の手三十三観音霊場31番です。
山号 | 平河山 |
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院号 | 源照院 |
寺号 | 浄土寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 港区赤坂4-3-5 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 山の手三十三観音霊場31番 |
浄土寺の縁起
浄土寺は、明蓮社教誉上人聖公和尚(文亀3年1503年寂)が開山となり平河(千代田区)に創建、寛文5年(1665)当地へ移転したといいます。
「赤坂區史」による浄土寺の縁起
浄土宗浄土寺(山號及別號平河山源照院、三縁山増上寺末)一ツ木町三十三番地
起立は文亀の頃で、初め江戸城内平川口の地に創建し、後に白銀町へ替地を命ぜられ、また麹町十丁目成瀬隼人正屋敷の邊に引き移つたが、更に寛文五年、類焼の頃、現在の地へ替地を拝領移轉した。
開山は明蓮社教譽上人聖公和尚(文亀三年三月五日寂)で、中興開山は一故利覺和尚(慶長十六年三月五日寂)であるが、この利覺和尚といふのは、俗姓板橋氏で、板橋信濃守盛安の二男であつた。
もと地内に観音堂があつて、そこに安置された長さ三尺餘の正観世音立像の腹中に寛文三年の頃から厨子入観音の像一體を腹籠めにしたものがあつたが、文政八年二月類焼の砌、此等の像は悉く焼失した。この腹籠めの像といふのは、東福門院が文柄を以て手づから張作られた厨子入観音像一體、當時御附役を勤めた板橋志摩守政邦が拝領し、志摩守嫡子季盛が菩提所たる當寺に奉納したものと傳へられてゐる。
境内には石の閻魔像と唐銅の露佛があり、又地蔵堂には地蔵尊が安置され、毎月一、六の日には地蔵の縁日が立つて、一ツ木通りは賑ひを呈してゐる。又同境内には豊竹昇菊、同昇之助建立するところの近松門左衛門頌徳碑がある。
墓地には江戸時代の有名な戯曲者柳亭種彦の墓及び唐衣橘洲(田安家の臣小島氏、天明調狂歌の主唱者、享和二年歿、年六十)の墓があつたが、明治四十年、當寺の墓地移轉と共に荏原區戸越町へ移された。
塔頭常照院と、雲洞院は今は廢絶して、跡がない。(「赤坂區史」より)
江戸名所図会による浄土寺の縁起
平河山浄土寺
源照院と号候同町同所龍泉寺より半町程南の方同じ側にあり浄土宗申して縁山に属す本尊阿弥陀如来ハ座像四尺餘作者詳かに候、開山は教誉聖公上人と号す中興は源蓮社本誉利覚一故と号ける、當寺昔ハ御城内平河口の辺にありしを元亀三年今の地に移されしと云(江戸名所図会より)
東京名所図会による浄土寺の縁起
浄土寺
浄土寺は赤坂一ツ町三十三番地にあり、平河山と號す、浄土宗にして三縁山増上寺の末寺なり、開山は教譽聖公上人と號す、中興は源蓮社本譽利覺一故と故けたり。古昔、平河口の邊にありしを、元亀三年、今の地へ移されしとなり、境内千九百五十坪。
新編江戸志に云、平河山源照院浄土寺、浄土、増上寺末、開山明蓮社教譽上人聖公和尚、文亀三癸亥年五月十五日寂、往古平河口にあり、夫より白銀町に移り、亦麹町十丁目今の成瀬隼人正殿屋敷の邊にあり、寛永十二癸未年當所に移さる、開山より當住沖譽上人にいたりて、凡二十五世なりと云々。観音堂寺傳に曰、此靈像は人皇百一代後光明院の宸筆數多ありしを、東福門院の御筆跡の落ちりなん事を嘆かせ給ひ、御手自此観音の像を張り作りし給ひて、板橋志摩守平政郷に給りしを、凡家に安置し奉らん事を恐れて、當寺に納めらる、霊験いちしるしき事かそふるにいとまあらずと云々。
塔頭、常照院、雲洞院
寺門は東北に面し、一ツ木通、市廛の間にあり、門内空濶、右に地蔵堂あり、狐格子に絵馬を繋げり、左に唐銅の露佛並に焔羅王の石像を置く(東都歳時記閻魔参の條に、赤坂一ツ木浄土寺石像と見ゆ)以て本堂庫裡に通ぜり、古の塔頭、常照雲洞の両院、今、既に自滅せり、殘れる本堂庫裡すらも、壁は壊れ軒は傾き、寺観大破せるより、有志の喜捨を仰ぎ、再建の計画中なりと、堂前の空地、樹木を植えず、堂後の墓域、蘚苔厚し、しか荒涼を極むるにも關らず、毎六日は、地蔵尊の縁日にして、境内、賽客麕至雑沓せり、延て近傍數町に及べり、由来、一ツ木通は當區内屈指の市街たり、浄土寺地蔵尊縁日の賑ひ、市名物といはむ也。
寺内に戯作者柳亭種彦翁(次項に記す)及び狂歌師唐衣橘洲の墳墓あり。橘洲、姓は小島、名は謙之、字は温之、醉竹菴と號す、享和二年七月十八日寂す、法號心眼院開譽得聞居士。
柳亭種彦翁の墓
赤坂一ツ木町平河山浄土寺にあり、翁、姓は高屋、名は知久、通稱彦四郎、種彦は其號なり、幕府に仕へて禄二百俵を食む、而も翁は江戸時代に於ける戯作者の巨擘たり。著はす所、偐紫田舎源氏、浅間嶽面影草紙、逢州執着譚、正本製、綟手摺昔木偶、天縁奇遇、勢田橋龍女の本池、阿波の鳴門...皆傑作と稱せらる、就中、田舎源氏は不朽の作なり。天保十三年七月十八日(戯作者小傳には十一日、墓所一覧には十九日とあり、今潭海に従ふ)没す、享年六十、法號芳寂院殿勇譽心禅居士、その辞世の句に、
又源氏の人々のうせ給ひしも大方秋なりと前書して
われも秋六十帖をなごりかな
小説の外、世に聞こえたる著述は、環魂紙料、江亭塵拾、用捨箱、柳亭記、柳亭筆記、足薪翁之記等あり。(東京名所図会より)
浄土寺の周辺図
参考資料
- 「赤坂區史」
- 江戸名所図会
- 東京名所図会