三田山魚藍寺|江戸三十三観音の魚藍正観世音菩薩像
魚藍寺の概要
浄土宗寺院の魚藍寺は、三田山水月院と号します。魚藍寺は、法誉上人が大分県中津市の圓應寺地中に魚藍院として元和3年(1617)創建、寛永7年(1630)三田に移転したといいます。法誉上人の弟子称誉上人が承応元年(1652)観音堂を創建して一寺となったといいます。法誉上人は、済海寺、道往寺も創建した高僧です。当寺所蔵の魚藍正観世音菩薩像は、江戸三十三観音霊場25番、東京三十三観音霊場4番札所となっています。
山号 | 三田山 |
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院号 | 水月院 |
寺号 | 魚藍寺 |
住所 | 港区三田4-83-4 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 江戸三十三観音霊場25番、東京三十三観音霊場4番 |
魚藍寺の縁起
魚藍寺は、法誉上人が大分県中津市の圓應寺地中に魚藍院として元和3年(1617)創建、寛永7年(1630)三田に移転したといいます。法誉上人の弟子称誉上人が承応元年(1652)観音堂を創建して一寺となったといいます。
「芝區誌」による魚藍寺の縁起
魚藍寺 三田裏臺町十九番地
浄土宗智恩院末、三田山浄閑院。元和三年開山稱譽の師僧法譽が豊前國中津圓應寺に一草庵を結んで之を魚藍院と號した。寶永七年三田に移り、願海寺地内に庵を營んで、一寺を開創しようとしたが果さず、其弟子稱譽が遺志を繼で此處に始めて一寺を建て、三田山水月院魚藍寺と稱した。安永三年に至り、三田山魚藍院浄閑寺と號した。
此本尊は唐佛で、法譽上人が長崎にあつたのを持ち来つたものである。佛形面相唐女のごとく、右の手の藍に魚の入つたのを持ち、左に天羽衣を携へた八九寸ばかりの立像である。此魚藍観音には次ぎの様な縁起が語り傳へられる。
もろこし金舎檀と云所の浦人、漁りなく飢へしとき、一人の美女藍に魚を入れ持来て漁父の飢をたすけ、肌うすきものには衣をあたふ。漁父ともその美なるにまどひ、人みなこれを戀ふ。女の曰、此経を一日がほどにおぼえたるにしたがふへしと、観音経をあたふ。おのをのそれにそみて皆人これを覺ゆ。しからはこれを覺えたらんにはと、法華経を授くるに覺ゆるものなく、馬郎といふもの一人おぼえたり。扨こそ約のごとく妻となりて家にゆく。その夜にはかに大熱してかの女死す、馬郎ふかくかなしび、骸を煙りとす。そのあくる日一人の老翁来り、かの女をとふ。それは過し夜死したりと云ふ。老翁云、我はその父也、その跡を見すべしと。則つれてゆくに、灰中ことことく舎利也。時に老翁かの女はかの観音の化身なり、我また分身のぼさつなりとうせぬ。馬郎即ち法に入て悟る、そを魚藍の観音と號と也。
「江戸砂子補正」には、此観音は伊皿子長應寺の床の置物であつた靈照女の唐物を、浄閑寺で貰ひ受けて魚藍観音と名付けたものであるとしてある。(「芝區誌」より)
魚藍寺の周辺図
参考資料
- 「芝區誌」