冬嶺山松秀寺|徳川宗将の帰依で高井戸から当地へ移転
松秀寺の概要
時宗寺院の松秀寺は、冬嶺山本寿院と号します。遊行第二世他阿真教上人が嘉元年中(1303-1305)下高井戸に創建、佛頂山常光寺と称したといいます。紀州菩提心院殿宗将卿の帰依を受けて宝暦2年(1752)当地へ移転、明和年中(1764-1771)現寺号に改称しました。
山号 | 冬嶺山 |
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院号 | 本寿院 |
寺号 | 松秀寺 |
住所 | 港区白金2-3-5 |
宗派 | 時宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
松秀寺の縁起
松秀寺は、遊行第二世他阿真教上人が嘉元年中(1303-1305)下高井戸に創建、佛頂山常光寺と称したといいます。紀州菩提心院殿宗将卿の帰依を受けて宝暦2年(1752)当地へ移転、明和年中(1764-1771)現寺号に改称しました。
新編武蔵風土記稿による松秀寺の縁起
(麻布領白金村)松秀寺
境内年貢地7段7畝24歩。小名東名光にあり。時宗相模国藤沢清浄光寺の末。冬嶺山本寿院と号す。開山遊行第二世他阿真教上人、嘉元年中起立せり。遊行歴代図を見に上人は正応2年9月3日摂州栗河極楽寺にて賦算53歳、遊行16年元応元年正月27日相州当麻山無量光寺にて83歳にて入滅せり。開闢の初めより多摩郡下高井戸にありて、佛頂山常光寺と称せしに紀州菩提心院殿宗将卿遊行第五十代快存上人に帰依せられ、宝暦2年かの寺を当所に遷し、後明和年中山号寺号を今の如く改号す。本堂8間に5間。本尊阿弥陀如来は坐像にして長1尺恵心僧都の作なり。又日限地蔵尊の像2体あり。いづれも立像にして長1尺8寸、2体ともに徳一大師の作なり。もと陸奥国会津西光寺にありしを、紀州菩提心院殿崇信し給ひ、3体の内2体をとめられて当寺へ寄附せられしとなり。
熊野社。本堂の右にあり。
稲荷社。同所にあり。
大黒天社。同所にあり。(新編武蔵風土記稿より)
「芝區誌」による松秀寺の縁起
松秀寺 白金三光町五百三十八番地
相模國藤澤清浄光寺末で、時宗に属し、門に冬嶺山の扁額を掲げ、境内には梅樹が多い。嘉元中多摩郡高井戸に創建し、常光寺と稱してゐた。寶暦二年徳川宗将(和歌山侯)此地に移し、明和二年中松秀寺と改めた。中興の開山は遊行五十世快存上人である。本宗に属する寺院は少く市内でも僅かに七箇寺を數へるのみである。當寺に安置してある延命地蔵菩薩は、徳一大師の作で、霊験あらたかと稱せられてゐる。祈願者は其日數を限つて祈念する習慣になつてゐるので、俗に日限地蔵とも呼ぶ。(「芝區誌」より)
松秀寺所蔵の文化財
- 日限地蔵尊略縁起等版木(港区指定有形文化財)
松秀寺の周辺図
参考資料
- 「芝區誌」
- 新編武蔵風土記稿