長祐山承教寺|日蓮宗池上末触頭
承教寺の概要
日蓮宗寺院の承教寺は、長祐山と号します。承教寺は、日圓が開山となり正安元年(1299)芝西久保に創建、承応2年(1653)当地に移転、江戸時代には池上本門寺末頭として触頭を勤めていたといいます。
山号 | 長祐山 |
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院号 | - |
寺号 | 承教寺 |
住所 | 港区高輪2-8-2 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 日蓮宗池上本門寺末頭 |
承教寺の縁起
承教寺は、日圓が開山となり正安元年(1299)芝西久保に創建、承応2年(1653)当地に移転、江戸時代には池上本門寺末頭として触頭を勤めていたといいます。
「芝區誌」による承教寺の縁起
承教寺 二本榎一丁目十八番地
日蓮宗本門寺末派の觸頭である。正安元年西久保に創建し、承應二年此地に移つた。日圓を開山とする。舊子院に長運寺、妙福寺があつた。寺寶に、日重上人、日乾上人、日遠上人の畫像三幅、日講上人の畫像一幅、狩野常信畫三幅等があり、寺内に英一蝶の墓がある。昔は此寺門の前に榎が兩株植えてあつたので、二本榎承教寺と呼んだが今は無い。(「芝區誌」より)
二本榎の碑について
その昔、江戸時代に東海道を日本橋からきて品川宿の手前、右側の小高い丘陵地帯を「高縄手」と呼んでいましたが、そこにある寺に大木の榎が二本あって、旅人のよき目標になっていたそうです。
誰いうとなくこの榎を「二本榎」と呼ぶようになりました。
それがそのまま「二本榎(にほえのき)」という地名となって続き、榎が枯れた後でも地名だけは残りました。
戦後、地番変更で高輪何長眼などと地名が変わりましたが、昭和42年に黄梅院の境内に夫婦の榎を植樹し、石碑を立ててこの二本榎の町名をいつまでも忘れないようにしました。
平成2年、碑をこの場所に移しましたが、二本の榎は黄梅院に大切に育てられています。
この碑はこの町の住民にとって大切な象徴となっております。(境内掲示より)
承教寺所蔵の文化財
- 英一蝶墓(東京都指定文化財)
- 絹本着色英一蝶筆釈迦如来画像(港区指定有形文化財)
英一蝶墓(指定昭和18年5月)
江戸中期の絵師、英派の始祖、本名は多賀信香、潮湖のち一蝶、北窓翁などと号した。承応元年(1652)大坂に生まれ、15歳(一説に8歳)のとき、伊勢亀山藩侍医となった父多賀白庵に従って江戸に移った。絵は狩野安信に師事し、また書、俳諧、音曲にも秀で、当時のいわゆる通人であった。
元禄11年(1698)「当世百人一首」や「朝妻舟」の図などが将軍綱吉を風刺したとして三宅島に配流となったが、在島12年ののち大赦により江戸に戻った。赦免の報を聞いた時、蝶が花に戯れる様を見て「一蝶」と号したという。
軽妙洒脱な筆致で江戸市民や都市風俗を描くことを得意としたが、享保2年(1717)には風俗画廃業を宣言している。同9年1月13日、73歳で没した。(東京都教育委員会掲示より)
承教寺の周辺図
参考資料
- 「芝區誌」