清性寺跡と白狐稲荷

猫の足あとによる東京都寺社案内

清性寺跡と白狐稲荷|真言宗豊山派寺院跡と白狐稲荷霊石

清性寺跡と白狐稲荷の概要

真言宗豊山派寺院だった清性寺、と白狐稲荷とは、練馬区北町2-41高台の上にあります。現在は地元の管理委員会の下で保存されています。

清性寺跡と白狐稲荷
清性寺の概要
山号 神明山
院号 観音院
寺号 清性寺
住所 練馬区北町2-41
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 -



清性寺跡と白狐稲荷の由来

清性寺は、快遍(宝暦8年=1758年2月27日没)開山と新編武蔵風土記稿にありますが、寛文2年(1662)の住職の墓があることから、江戸時代に入ってから金乗院末として創建されたものと推定されます。明治維新の廃仏毀釈に際し、阿弥陀堂(北町2-18、現存)、威徳院(豊島園附近にあった)、松林寺、高徳寺(北町5丁目歩道橋附近にあった)、東林寺(金乗院門前にあった)等と共に金乗院に吸収されています。

境内掲示による清性寺の縁起

清性寺は江戸時代の初期よりあり「新編武蔵風土記稿」にも記録されております。その内容は、「金乗院末、下三ヶ寺並に同じ、神明山観音院と号す。本尊不動は弘法の作、長さ1尺2寸立像なり。法流開山快遍宝暦8年2月27日化す。」とあります。歴代の住職の墓石の名前を見ますと、かなりな高僧であったことがわかり、権威の高さがうかがえます。境内には明治の初期までは、鐘楼もあったと言われ、寺の敷地はかなり広大であったものと思われます。
清性寺の入り口にある「招魂碑」には千川上水の開拓者、千川家の名前を始め、多くの阿弥陀堂有力者の名前が刻まれている事が上げられ、阿弥陀堂との関係の深さを物語っています。又、清性寺と阿弥陀堂は一体であったものと判断できるものであります。この事をとらえ、双方の墓石などの年代を追いますと、清性寺には寛文2年(1662)の住職の墓があり最も古く、他にも寛文11年の尼さんの墓があり、330年以前の徳川時代初期から本寺が実在していた事が実証されるものであります。阿弥陀堂では寛文12年(1672)のものが最も古く、創世期の清性寺、阿弥陀堂、双方の往時の歴史の重さが感じられます。
又、現存する寛政4年の「下練馬絵図」を見ますと、本寺の規模も知ることができ、往時の賑わいを偲ぶことが出来るものであります。
本尊不動像は、弘法の作とあり製作年度は不明ですが、この度の火災により、全体が焦げ、手は無いものの現存致しており、又、ご本尊以外にも比較的大きな弘法大師像、木魚等があり、同じ年代の作と思われます。この様な古い仏像は、北町ではこれ以外に実在せず、我が街の宝として大切に保存、後世に残さなければなりません。このために、お堂、稲荷社等を多くの関係者の努力により、この度再建をし、合わせて地域の皆様の幸せを願うものであります。合掌 平成8年5月吉日 清性寺管理委員会

白狐稲荷霊石の由来

白狐稲荷は白い狐が石に浮き出ている霊石で、徳丸の斉藤家から祭りこみを依頼されたものと言われております。
斉藤家の由来によれば、これは、豊臣秀吉公の守り神であったが、慶長5年、関ヶ原の戦の際に、秀頼公から石田三成に渡したものだと言われ、戦いに敗れた石田三成は、越後に逃げ延びたが、大切なこの石を泊まった宿に預けてしまったため、捕まって死罪になったと言われております。もしこの霊石を、離さず持っていれば難に遭わなかったのではないかと言われ、その後は、この宿の災難よけの稲荷となっていたものだそうであり、斉藤家はその宿の子孫にあたります。(練馬の伝説より)平成8年5月吉日 清性寺管理委員会


清性寺跡と白狐稲荷の周辺図

参考資料

  • 「練馬の神社」(練馬区教育委員会)