壽福山蓮光院|玉川八十八ヶ所霊場
蓮光院の概要
真言宗智山派寺院の蓮光院は、壽福山円満寺と号します。蓮光院は源清(天正2年1574年寂)が中興開山したといいます。また、玉川八十八ヶ所霊場59番、境内には備前池田家の表門であったと伝えられる武家屋敷門が山門として使用されています。
山号 | 壽福山 |
---|---|
院号 | 蓮光院 |
寺号 | 円満寺 |
住所 | 大田区下丸子3-19-7 |
本尊 | 大日如来像 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 玉川八十八ヶ所霊場59番 |
蓮光院の縁起
蓮光院は、源清(天正2年1574年寂)が中興開山したといいます。
「大田区の寺院」による蓮光院の縁起
当院は寿福山蓮光院円満寺と号し、院号を公称している。本山直末寺院で、開基は不詳であるが、中興開山源清は、天正2年(1574)3月8日示寂。本尊大日如来を安置す。享保元年(1716)本堂類焼し、同2年これを再建、更に明治45年(1912)改築、昭和14年(1939)現住職により本堂庫裡を増改築し、山門を建立したが、昭和20年(1945)4月15日戦災に罹り、山門を残して灰燼に帰した。昭和31年(1956)から引続き本堂、庫裡、書院、山門を修復し、現在に至る。また六阿弥陀第五番、玉川八十八ヶ所第五十九番の札所として、古くから信仰され、村社六所神社および末社諏訪神社、天祖神社の別当寺として、村の行事一切をおこなっていた。境外仏堂に三体地蔵尊があるが、討死した新田義興の従臣3人を祀ったものといわれる。(「大田区の寺院」より)
新編武蔵風土記稿による蓮光院の縁起
(下丸子村)蓮光院
除地2段3畝18歩。村の東にあり。新義真言宗、橘樹郡小杉村西明寺末、壽福山円満寺と号す。開山の名を知らず、寺僧歴代の中始に良範律師と云を載す。是等なりや。されど年代を傳へず。法流開基傳燈大阿闍梨海尊、是も年代を知らず。中興開山源清僧都天正2年3月8日寂すといへば大概古き世より開けしことしらる。客殿5間に7間、東向。本尊大日如来、座像1尺2寸ばかり。(新編武蔵風土記稿より)
境外仏堂の三体地蔵堂について
境外仏堂の三体地蔵堂は、妙蓮塚三体地蔵堂とも称します。三体地蔵堂は新田義興の家臣3名を祀ったもので、土肥三郎左衛門、南瀬口六郎、市河五郎及びその従者が当地で戦死したといいます。後年妙蓮尼が三士の為に地蔵堂を建立、妙蓮塚三対地蔵堂と称すようになりました。
地蔵堂内石碑による三体地蔵堂の縁起
土肥三郎左衛門、南瀬口六郎、市河五郎は新田義興公の家臣で難に当って公に殉じた忠烈の士である。即ち此に祀る。抑々義興公は新田義貞公第二子で、後醍醐天皇の御前に元服し賜名、叙位、任官の思栄に浴し、又、明治天皇の特旨を以て従三位を賜られた南朝の忠臣である。一生を吉野朝興復に捧げ東征西伐勲功著しく特に鎌倉を攻略して関八州に号令した事もあった。稚国大いに恃まれたが正平13年10月10日敵の奸謀に陥って矢口渡に於て従臣十三士と倶に壮絶散斃した。是とき土肥等三士は潜水渡河して数百の敵中に斬込み奮闘時餘五人を討取り十三人に傷を負はせたが如何せん裸身一剣、大敵の前に施す術なく遂に同じ枕に討死した。此地は其の古跡である。嗚呼忠勇義烈洵に鬼神をも泣かしめる。当寺村老等相謀って主従夫々縁由の地に篤く祀ってその霊を慰めた。而して後年妙蓮と称す尼僧があって特に三勇士の為に地蔵尊を建立して敬共懈らなかった。里人これよりその名を冠して呼び且つ安産子育息災繁昌を祈って詣寶今日に至った。(地蔵堂内石碑より)
蓮光院所蔵の文化財
- 武家屋敷門(東京都指定有形文化財)
武家屋敷門
武家屋敷門
備前池田家の表門であったと伝えているが詳かではない。格式からすると小大名の武家屋敷表門としては格調の高い様式を備えており、構造、形式ともによく保存されている。家格に応ずる江戸時代各種武家屋敷門のうちでも、とくに遺存例の少ない1~5万石の小大名格の形式をよく伝えており、希少な文化財として貴重である。
建築者は不明であるが、建築年代は江戸時代末期と推定され、構造は一重、入母屋造、桟瓦葺、片番所格子付、片潜門。(東京都教育委員会掲示より)
蓮光院の周辺図