梶原稲荷神社|品川区東大井の神社

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梶原稲荷神社|清伝寺境内に祀られていた社、大井村七稲荷

梶原稲荷神社の概要

梶原稲荷神社は、品川区東大井にある稲荷神社です。梶原稲荷神社は、源頼朝の命により梶原景時が大井に建久3年(1192)萬福寺を創建した際、寺の守護神として勧請、梶原稲荷と称したといいます。元応元年(1319)に兵火に罹り萬福寺は馬込へ移転、梶原稲荷は梶原屋敷へ奉遷、来福寺境内(だった)梶原塚に遷座しました。この梶原塚は、鎌倉権五郎景正の子孫梶原日向守、亦梶原助五郎一族を祀る墳墓だといいます。

梶原稲荷神社
梶原稲荷神社の概要
社号 稲荷神社
祭神 宇迦之売命
相殿 -
境内社 -
住所 品川区東大井3-9-15
備考 -



梶原稲荷神社の由緒

梶原稲荷神社は、源頼朝の命により梶原景時が大井に建久3年(1192)萬福寺を創建した際、寺の守護神として勧請、梶原稲荷と称したといいます。元応元年(1319)に兵火に罹り萬福寺は馬込へ移転、梶原稲荷は梶原屋敷へ奉遷、来福寺境内(だった)梶原塚に遷座しました。この梶原塚は、鎌倉権五郎景正の子孫梶原日向守、亦梶原助五郎一族を祀る墳墓だといいます。

境内掲示による梶原稲荷神社の由緒

梶原塚稲荷祠由来記
今ヲ距タル七百七十二年前(建久三年)梶原兵三景時、征夷大将軍源頼朝ノ命ヲ奉ジテ、武蔵國大井村鹿島谷ニ萬福寺ヲ建立シ、ソノ境内ニ守護神トシテ稲荷ヲ勧請シテ梶原稲荷ト尊称シタ。
元応元年十月、萬福寺ハ兵火ニヨリ焼失シ馬込村ニ移リタル依リ、焼ケ残リシ稲荷祠ハ梶原屋敷内ニ奉遷サレテ、後、柴村来福寺ニ奉納サレ、ソノ追福ノタメ同寺へ松櫻ナドヲ植エ寄進シタ。
コノ梶原塚ハ、桓武天皇五代ノ裔、常陸少掾良茂ヨリ五代ノ孫、鎌倉権五郎景正ノ子孫梶原日向守、亦梶原助五郎一族ヲ祀ル古墳デアル。
從来、コノ稲荷祠ハ南浜川桜井源兵衛氏ノ所有ナリシガ、大正十四年一月ヨリ地元、元芝、関ヶ原ニ居住スル信仰者ニ管理ヲ委任サレ、地元民ノ協力ニ依リ社務所ヲ建設シ維持管理ニ当ッテ今日ニ至ッタ。
梶原氏ハ鎌倉権五郎景正、梶原兵三景時、梶原源太景季ト代々武勇ノ誉高ク、子孫皆ヨク栄エ、又、古来コノ地ニ火災、災難等無キハ、梶原稲荷ノ御守護ニヨルモノナリト伝エラレ、住民皆襟ヲ正シテ尊敬シ。
昭和三十八年浄財ニヨリ大修理ヲ加エ、神徳ヲタタエテ信者集イ祭祀ヲ厳修シタ。
昭和三十九年二月十五日初午ノ日
梶原稲荷講(境内掲示より)

東京都神社名鑑による梶原稲荷神社の由緒

単立法人のため記載なし(東京都神社名鑑より)

「大井町史」による梶原稲荷神社の由緒

梶原塚と稲荷祠
梶原塚は字元芝にあり、来福寺の北方約一丁を距つた處にある。抑々来福寺の本尊は地蔵菩薩であつて鎌倉權五郎景政の守本尊といはれ、景季に至りて大に之を尊信し、屋敷を大井に構へて(土州邸を梶原屋敷と云ひ傳ふ)安置したるを、後来福寺へ奉納し其の追福の爲め、松、櫻などを植えたと云ひ傳へられる。此の梶原塚は鎌倉梶原の子孫である、梶原日向守又は梶原助五郎の一族の墓であらう。
又来福寺に梶原の墓があり、海晏寺に梶原塚があり、東海寺に景政塚がある所から見れば、此の近邊は梶原氏に深き由緒のあつた處である。而して往古より此の塚に稲荷を勧請し、之を梶原稲荷と稱へ、嘉永の頃は参詣する者頗る多く群衆したと云ふことである。從来此の稲荷祠は南濱川櫻井源兵衛氏の所有であつたが、大正十四年一月より、地元の元芝、關ヶ原の信仰者に於て、同氏の委嘱を受けて之を管理することゝなり。爾来祠堂の改築又は社務所の建設、鳥居の新設等を行ひ、信仰者益々多く隆盛を極めて居る。(「大井町史」より)

新編武蔵風土記稿による梶原稲荷神社の由緒

(大井村来福寺内)
梶原塚。境内北の方にあり、景季の墳と云、按に此邊梶原景時父子の舊蹟と云もの多し。巳に馬込村の條にも記せし如く、永禄の頃小田原北條家人に梶原氏のものありて、馬込村を領したるにより後人附會の説を起し、かく景時が舊蹟のやうに云傳へしならん、猶馬込村の條に合せ見べし。(新編武蔵風土記稿より)


梶原稲荷神社の周辺図


参考資料

  • 「東京都神社名鑑」
  • 新編武蔵風土記稿
  • 「大井町史」

関連ページ

  • 来福寺(品川区)
    梶原屋敷地
  • 萬福寺(大田区)
    当社を勧請した寺