喜多見氷川神社|江戸幕府より社領10石2斗の御朱印状
喜多見氷川神社の概要
喜多見氷川神社は、世田谷区喜多見にある氷川神社です。喜多見氷川神社は、天平12年(740)の創建と伝えられ、かつての別当寺禱善寺が長禄元年(1457)中興であったことからも室町時代以前の創建と考えられます。慶安2年社領10石2斗の御朱印状を江戸幕府より拝領、明治6年村社に明治17年には郷社に列格していました。大蔵氷川神社・宇奈根氷川神社とともに三所明神社と称されるといいます。喜多見氷川神社の節分祭行事と神前神楽・喜多見氷川神社石鳥居一基は区の文化財に指定されています。
社号 | 氷川神社 |
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祭神 | 素盞嗚尊 |
境内社 | - |
相殿 | - |
祭日 | 10月2日 |
住所 | 世田谷区喜多見4-26-1 |
備考 | 旧喜多見村鎮守、旧郷社 |
喜多見氷川神社の由緒
喜多見氷川神社は、天平十二年(七四〇)の創建と伝えられ、かつての別当寺禱善寺が長禄元年(1457)中興であったことからも室町時代以前の創建と考えられます。慶安2年社領10石2斗の御朱印状を江戸幕府より拝領、明治6年村社に明治17年には郷社に列格していました。大蔵氷川神社・宇奈根氷川神社とともに三所明神社と称されるといいます。
新編武蔵風土記稿による喜多見氷川神社の由緒
(喜多見村)氷川社
社地、六十坪、御朱印地の内、小名本村にあり、本社東向、纔に五尺四方板葺、神体長二尺許、烏帽子の如なるものを冠せり、行基の作、社の廻りに古木立り、拝殿は二間に二間半茅葺、大門の通り長さ十五間、幅九尺、前に石の鳥居を立つ、両柱へ承応三甲午年九月九日、喜多見九太夫重勝・喜多見五郎左衛門重恒の数字、及びこの外當社は余が輩の氏神なれば、兄弟議して建るよしをおえれり、後にのせるがごとく、當社に永禄の比再興の棟札元和以下のも五枚あれば、いづれ古くよりの鎮座なるべし、別当寺の開山良尊は長禄元年十月寂せしといへば、その比の鎮座にてもあるにや、慶安二年十月十七日十石二斗外に除地五石四斗あり。
別当禱善寺
寺地、二百五十坪、小名本村にあり、氷川社に並べり、この寺元は氷川社の南にありしに、いつの頃かここへ移れりと。今其舊地は畠となれり、善明山華蔵院と號す、天台宗東叡山の末にて深大寺の支配なり、開山良尊長禄元年十月十七日遷化したるよしを傳れば、舊きより草創の寺院なるべし、中興開山圓盛貞享五年七月廿一日寂す、客殿六間四面、本尊弥陀木の立像二尺餘なるを安置せり。
観音堂。門を入て左にあり、堂二間半四方、十一面観音は木の坐像にて、氷川明神社の本地佛なり。
聖天稲荷毘沙門相殿。これも同じ邊にあり、纔なる祠なり(新編武蔵風土記稿より)
せたがや社寺と史跡による喜多見氷川神社の由緒
氷川神社(喜多見町3475)
祭神は素盞嗚尊、神体約2尺(65cm)、男装楠の荒彫神像と伝え、創建当時のものといい伝えられている。天平12年(740)9月18日の創建といわれ、約520年後の延文年間に社殿大破し多摩川大氾濫の際古縁起古文書などを流失してしまったので、往古の事は不詳である。その後永禄13年(1570)4月27日、当地の領主刑部少輔江戸頼忠社殿を修理し、国土安穏武運長久を祈願し、家重代の藤原次助真の太刀を寄進したと伝えられているが、今はない。孫の勝忠神領若干と当地住藤原繁昌作の槍を奉納したが、やはり今はない。勝忠の孫重政、天和元年(1681)12月2000石の加増があったので、先例にならい同2年1月4日5石4斗8升9合の除地を寄進した。慶安2年(1681)10月17日徳川家光は10石2斗の朱印神領を寄進した。以来代々の将軍より同高をど寄進する習わしが14代まで続いた。明治6年12月村社に列し、同17年4月21日郷社に昇格し、同年40神饌幣帛料供進神社に指定された。大正14年社殿頽破したので、亨和3年建立の社穀を修復し奥殿とし、別に拝殿を新築し、同15年10月15日落成、荘麗な社殿となった。社宝に家光以下14代将軍まで9通の朱印状と、永禄・元和・寛永・貞享・享和などの新築・修復・重修の際の棟札5枚、承応3年(1654)喜多見(江戸氏裔)重勝重恒兄弟奉納の石鳥居、元禄12年(1699)代官永田作太夫の寄進状、元享3年(1321)文明5年(1473)の板碑、慶元寺古墳群の一つより出土の古剣身などがある。1町2段(107a)の神域中社殿の裏に、廼り約1丈5尺(4.55m)高さ約3丈(9.3m)の神木椎の大樹、外古木欝蒼として神殿に一段と荘識さを加えている。境内の東北隣は、関山権大僧都法印良尊(長禄元年<1457>遷化)無檀の別当寺普命山華蔵院祷善寺といい、江戸頼忠が大檀那となり中興されて明治初期まであったが、神仏分離により廃寺となり今はない。因みにこの寺も元江戸城内にあったといい伝えられている。(せたがや社寺と史跡より)
世田谷区教育委員会掲示による喜多見氷川神社の由緒
氷川神社
祭神は素盞嗚尊である。
創建は天平十二年(七四〇)と伝えられているが、江戸頼忠が永禄十三年(一五七〇)に改築した時の棟札が社蔵されている。またその子孫喜多見勝忠が神領五石余りを寄進した。
社前の二の鳥居は承応三年(一六五四)に喜多見重恒、重勝兄弟によって建立された。
ときの将軍からも十石二斗余りの朱印状を与えられていた。(世田谷区教育委員会掲示より)
喜多見氷川神社所蔵の文化財
- 喜多見氷川神社の節分祭行事と神前神楽(世田谷区指定無形民俗文化財)
- 喜多見氷川神社石鳥居一基(世田谷区指定有形文化財)
喜多見氷川神社の節分祭行事と神前神楽
当社で行われる節分の鬼やらい行事は、鬼問答と大黒舞からなり、都内でも異色な民俗行事として貴重な伝承芸能である。この行事は古くより喜多見の地に伝わる独自な形式をもつ郷土芸能で、氏子により奉納されている。神前神楽は、(五座=奉幣・榊・舞扇・弓・太刀)は秋の例祭に奉納される神前舞で、これも氏子により伝承された郷土芸能で、区内では唯一のものである。
また、この民俗芸能に使用されている面や衣装等も伝承具として、文化・芸能史上貴重なものである。(世田谷区教育委員会掲示より)
喜多見氷川神社石鳥居一基
承応三年、喜多見村の地頭であった喜多見重恒・重勝兄弟が氏神である当社に奉建したものである。鳥居の特徴は、台石上部の根巻が太く、円柱の三分の一位あることと、寄進の年記や寄進者等が明確に刻まれていることである。なお、銘文は杉庵石井兼時の書であると伝えられている。
この石鳥居は区内最古のもので、形式・石質とも特異でありこの地方の文化史上貴重なものである。(世田谷区教育委員会掲示より)
喜多見氷川神社の周辺図