大蔵氷川神社|暦仁元年(一二三八)に江戸氏が勧請
大蔵氷川神社の概要
大蔵氷川神社は、世田谷区大蔵にある氷川神社です。大蔵氷川神社は、暦仁元年(一二三八)に江戸氏が埼玉県大宮市の氷川神社を勧請したものと伝えられ、喜多見氷川神社・宇奈根氷川神社とともに三所明神社と称されるといいます。
社号 | 氷川神社 |
---|---|
祭神 | 大己責命、素盞嗚尊等五座 |
境内社 | - |
相殿 | - |
祭日 | 10月2日 |
住所 | 世田谷区大蔵6-6-7 |
備考 | - |
大蔵氷川神社の由緒
大蔵氷川神社は、暦仁元年(一二三八)に江戸氏が埼玉県大宮市の氷川神社を勧請したものと伝えられ、喜多見氷川神社・宇奈根氷川神社とともに三所明神社と称されるといいます。
新編武蔵風土記稿による大蔵氷川神社の由緒
(大蔵村)氷川社
除地、一段五畝、小名本村にあり、石階二十五級を登りて坂の上下に鳥居を立、一は石にて柱間八尺、一は木にして両柱の間六尺、上屋二間四方、西南の方を向り、内に僅なる祠を置、神体は束幣にして木の立像長二尺五寸許、永安寺の持、當社に古き棟札あり、左にのす。(棟札図省略)(新編武蔵風土記稿より)
せたがや社寺と史跡による大蔵氷川神社の由緒
氷川神社(大蔵町60番地)
祭神、大己責命、素盞嗚尊等五座
大蔵町の鎮守、喜多見町、宇奈根町のそれと共に三所明神の一つである。
御神体は束幣姿で80cm程の木彫立像である。金身黒色で玉眼が施してある。社殿は石段十数段の丘上にあり、木立探くいかにも村の鎮守にふさわしい宮のたたずまいである。「江戸名所図会」には「祭礼毎年九月廿一日なり、相伝ふ暦仁元年当地の主江戸氏足立郡大宮の御神を勧請すと云。旧は唯一宗源の社なりしに其後二百有余年を経て天文年間松井坊といへる山伏奉祀の宮となり両部習合す(中路)当社昔は五所に並び建て宮居魏々たりしにいつの頃より歟荒亡して唯比一社のみ残れりと云」とある。これによってみればこの社は七百余年前の遠き昔の建立であり、幾多の変還を経て今日に至っていることが察せられるのである。
拝殿には嘉永5年(1582)の年号を記した天の岩戸の奉納額、年号は不明であるが氷川祭礼の図、宇治川先障の図等の大額が掲げてある。又棟札が数枚あり、文政三年(1820)の棟札には
上棟 武蔵国多摩郡菅刈庄臣掠村鎮守氷山神社 里正石居市郎右帯門平晴保
と記してある。(せたがや社寺と史跡より)
世田谷区教育委員会掲示による大蔵氷川神社の由緒
氷川神社
祭神 素盞嗚尊
例祭 十月二日
暦仁元年(一二三八)に江戸氏が埼玉県大宮市の氷川神社を勧請したものと伝えられる。もと大蔵町の永安寺が別当であった。永禄八年(一五六五)の棟札には「武蔵国荏原郡石井土郷大蔵村氷川大明神第四ノ宮」と記されていた。
明暦二年(一六五六)に再建され、文政(一八一八-三〇)の初めにも本殿および拝殿が再建された。(世田谷区教育委員会掲示より)
大蔵氷川神社所蔵の文化財
- 大蔵氷川神社本殿並びに棟札(世田谷区指定有形文化財)
- 板絵着色大蔵氷川神社奉納絵図(世田谷区指定有形文化財)
大蔵氷川神社本殿並びに棟札
現存する最も古い年記のある棟札は、何の目的で奉納されたのかは不明であるが、明暦二年(一六五六)のもので、これを含めて十一枚の棟札があり、うち社殿造営に関するもの四枚、鳥居に関するもの四枚、その他奉納金や上棟祭などに関するものが三枚となっている。
社殿造営に関しては、延宝三年(一六七五)、元禄六年(一六九三)に「それぞれ「氷川大明神社頭一宇」と記された棟札が一枚ずつあり、その後、文政三年(一八二〇)の幣殿建立と、同七年(一八二四)の本殿再建の棟札がある。幣殿は現存していないが、現在の本殿はこの文政七年再建のもので、昭和六十三年に再建された社殿の中に納められている。
社殿の造営関係の棟札の他に、鳥居の造立やその他の奉納に関する奉納札がある。うち二枚は木製の鳥居の造営と修復について、他二枚は寛政七年(一七九五)の石華表(石鳥居)と石灯籠、湯立釜の奉納札、文化八年(一八一一)の石華表とその額、石灯籠の奉納札である。
その他にも文化八年(一八一一)二は奉納金として三両三分が納められ、その金子を元に土地を買い求めていることが記された奉納札などが残されており、これらの一連の棟札は、社殿の造営のみならず、村社としての氷川神社の変遷や当時の庶民の信仰を知ることができる貴重な史料である。
本殿は、一間社殿造の様式を持ち、屋根は柿葺、総欅造りである。正面に向拝が配され、その下には木階五級が付けられる。木階下には浜縁が三面に廻り、身舎の四周には幅2尺の大床が付く。装飾は白木造りで、龍の丸彫をはじめ、鮎や賢人の浮彫、籠彫が施されており、社殿に華美な彫刻を施すという、時代的特徴を良くあらわした建物である。
棟札により、建築年代のほか、上平間村(現川崎市)の大工渡辺喜右衛門源棟暁が造営にあたり、彫刻は渡辺徳次郎源棟績により行われたことが判る。
このように本殿は、江戸時代後期の時代的特徴をあらわし、一連の棟札は社殿の造営や神社の変遷を知るうえで貴重である。(世田谷区教育委員会掲示より)
板絵着色大蔵氷川神社奉納絵図
奉納絵図は、画面の下方を六郷用水(次大夫堀)が流れ、中央やや右よりに氷川神社社殿、その前面に幟と二基の鳥居、画面左横には永安寺本堂や庫裏、観音堂の姿が描かれている。
さらに、鳥居に向かって右横に堀で囲まれた草葺の農家と土蔵が描かれているが、これが大蔵村名主を勤めた安藤家の屋敷である。
六郷用水流域には、川で洗い物をする婦人の姿や、子供をつれた村人らが描かれ、のどかな田園風景が描写されている。
絵図背面の木地には、寄進社二十九人の名と、明治七年十一月三日の年紀が墨書され、幕末から明治時代所ねん頃の情景を描いたものと推定できる。
長期間社殿に懸けられていたため、彩色の剥落が甚だしいが、墨線は良く残り、また胡粉・群青・緑青・茶などの顔料が幾分認められ、当初はかなり鮮やかであったことが窺える。
絵図の作者はわからないが、描写は専門の絵師の筆とは見えない。いわゆる民画風の素朴な筆法で描かれ、たくましい墨線が随所に残る明治時代初期の民間風俗画の典型を示す。大蔵村民が寄進したためもあって、画題に豊かな現実感があり、昔日の大蔵本村一帯の地勢を窺わしめるものとしてもまた貴重な資料である。(世田谷区教育委員会掲示より)
大蔵氷川神社の周辺図