本覚山妙寿寺|関東大震災で罹災し移転、供出を免れた梵鐘
妙寿寺の概要
法華宗本門流の妙寿寺は、本覚山と号し、寛永8年(1631)江戸谷中に日受上人が妙感寺と号して開山しました。寛文年中(1661-1673)以前に本所猿江へ移転、猿江稲荷社の別当を勤めると共に、寺号を妙寿寺と改めました。関東大震災で罹災後、当地に移転しています。
山号 | 本覚山 |
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院号 | - |
寺号 | 妙寿寺 |
住所 | 世田谷区北烏山5-15-1 |
宗派 | 法華宗本門流 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 墓地、永代供養墓受付中 |
妙寿寺の縁起
妙寿寺は、寛永8年(1631)江戸谷中に日受上人が妙感寺と号して開山しました。寛文年中(1661-1673)以前に本所猿江へ移転、猿江稲荷社の別当を勤めると共に、寺号を妙寿寺と改めました。関東大震災で罹災後、当地に移転しています。
せたがや社寺と史跡による妙寿寺の縁起
日蓮宗、京都の妙蓮寺の末寺で本覚山妙寿寺と号し、寛永8年(1631)江戸谷中に日受上人が開山した。当寺妙感寺と号したが改称、のち深川に、さらに関東大震災後、当地に移転した。
本尊は日蓮上人の木像。
この寺には、心学者中沢道二の墓。豪徳寺の梵鐘、浅草寺弁天山の梵鐘などの作者が鋳造した梵鐘などがある。
墓地の中に「江戸心学参前舎 開祖 中沢道二翁墓」と刻まれた碑石がある。
道二は、京都上京新町で生まれ、父と織職をしていたが、後に石田梅厳の教を受け、手島堵安の門に入り、塩町で心学道話を講じ、また寛政3年(1791)神田相生町に参学舎をたてて、享保3年(1803)、79歳で没した。
心学は儒教などより平易に身近な例をもって説き、心の持ち方によって不安を解消する道を教え、私心を去り、倹約・正直・堪忍を守り、足るを知って分に安んぜよというのである。これは江戸市民、なかでも商人に歓迎され、学ぶ者が多かったといわれる。(せたがや社寺と史跡より)
太田氏釜屋六右衛門作の梵鐘
当寺の梵鐘は、延宝7年(1679)の作。太平洋戦争の供出をまぬがれた貴重なものであった。
作者は釜六といわれ、近江国に生まれ、太田近江大椽藤正次(太田氏釜屋六右衛門)という。江戸の芝、のち葛飾郡大島村に住み鋳造業を営む。元禄14年(1701)に没し、築地本願寺中、源正寺に葬られている。
著名な作として、明暦大火の焼失者をまつる回向院大仏(墨田区)、当区内の九品仏浄真寺の茶釜、豪徳寺の梵鐘、源正寺の天水涌などがあり、鋳造研究の貴重な資料となっている。(せたがや社寺と史跡より)
妙寿寺梵鐘
この梵鐘は享保4年江戸時代中期(1719)に鋳造されたものです。大正12年9月関東大震災の時、隣接のガス会社より流出したコールタール等により猛火につつまれ破損したので当時の被害の甚大であったことが想像できるのであります。
梵鐘には左記の如く銘刻されています。
武州葛飾郡本所猿江稲荷(猿江稲荷社)別当
本覚山妙寿寺第7世蓮成院日悟第
代々先姉見聞覚知并諸志聖霊法界萬霊飛況伏走野獣山育利益門遍元静か院五閑、本性院妙閑各霊
維時享保4年龍集歳11月
鋳物師太田近江椽藤正次作(以下省略)(境内掲示より)
妙寿寺の周辺図