渋谷氷川神社|渋谷区東の神社

猫の足あとによる東京都寺社案内

渋谷氷川神社|渋谷村・下豊沢村の鎮守、江戸郊外三大相撲

渋谷氷川神社の概要

渋谷氷川神社は、渋谷区東にある氷川神社です。渋谷氷川神社は、日本武尊東征の際に当地に素蓋鳴尊を勧請したと伝えられ、下渋谷村、下豊沢村の総鎮守だったといいます。参道左脇にある相撲場は、境内には江戸郊外三大相撲の一つ金王相撲が行われていました。

渋谷氷川神社
渋谷氷川神社の概要
社号 渋谷氷川神社
祭神 素盞鳴尊・稲田姫命
相殿 -
境内社 厳島神社、稲荷神社、秋葉神社、八幡社
例祭日 9月16日
住所 渋谷区東2-5-6
備考 下渋谷村、下豊沢村の総鎮守、別当宝泉寺



渋谷氷川神社の由緒

渋谷氷川神社は、日本武尊東征の際に当地に素蓋鳴尊を勧請したと伝えられ、下渋谷村、下豊沢村の総鎮守だったといいます。参道左脇にある相撲場は、境内には江戸郊外三大相撲の一つ金王相撲が行われていました。

新編武蔵風土記稿による渋谷氷川神社の由緒

下渋谷村及当村(下豊澤村)の鎮守なり。神体木の立像にて、本地(佛)は慈覚大師作の薬師、釈迦、阿弥陀、弁天、地蔵、大日、不動、十一面観音、毘沙門、各長1尺3寸なるを安す。当社は渋谷金王丸振興せし旧社なりと。或は右大将頼朝の勧請の社なりと云説あれと、今社傳を失ひたれば詳ならず。例祭は9月29日神輿を昇て両村を渡し、又角力を興行す。東叡山五世公弁法親王の筆氷川大明神の五字一幅を社寶とす。
末社。太神宮山王天満宮稲荷疱瘡神合社。弁財天社、当社を正五九月三度の神事には仮に神楽殿とす。
常盤松。廻1丈2尺余。傳へ云、左馬頭義朝の妾常盤の植し所にて、其色紙別当寶泉寺什寶として今に蔵す。計下に出せり。是よりして常盤の松と呼ならはせりと云。按に義朝か妾当国に下りしこと未所見なし。
永禄の頃世田谷の城主吉良左兵衛頼康の妾に常盤と呼しものあり。衆妾に妬まれ、遂に世田谷村小橋の邊にて自殺せしかは、其橋を今に常盤橋と呼。又同郡馬引澤村八幡社、及若林村香林寺、弦巻村常在寺等にも此人のことを傳たり。且世田谷より当所は程近き所なれば、此松を植しは頼康か妾常盤なるへし。然るを義朝か妾の旧名なるを以てかく誤り傳へしならん。此樹下に萬代石と刻したる石あり。浪人斎藤定易建る所にて90年程に及ふ。其子孫今松平備前守藩士なり。(新編武蔵風土記稿より)

東京都神社名鑑による渋谷氷川神社の由緒

古くは氷川大明神といって旧下渋谷村・豊沢村の総鎮守であった。創始は非常に古く、これを詳かにすべきものがないが、慶長十年(一六〇五)に別当宝泉寺第百代の住職貿園の記した『氷川大明神並宝泉寺縁起』によれば、景行天皇の御代の皇子日本式尊東征のとき、当地に素蓋鳴尊を勧請し、その後、弘仁年中(八一〇-二四)に、慈覚大師が宝泉寺を開基し、それより同寺が別当となったとあって、正徳三年(一七一二)宝泉寺から幕府に出した書上には「起立の年数知れ不申候」と見えている。元禄六年(一六九三)および延享五年(一七四八)奉行所へ差出しの図面には、いずれも境内除地六千八百四十坪とあり、正徳三年(一七一二)および寛延二年(一七四九)などの寺社奉行からくだした朱印状にも同様となっていて、以後それがつづいて今日におよんでいる。(東京都神社名鑑より)


渋谷氷川神社所蔵の文化財

  • 金王相撲
  • 紙本著色氷川大明神并宝泉寺縁起絵(渋谷区指定有形文化財)

金王相撲

渋谷氷川神社の金王相撲は、大井鹿島神社世田谷八幡宮とともに江戸郊外三大相撲の一つとされていました。

この氷川神社の創建は、区内でも古く、かつての下渋谷村、下豊沢村の鎮守社でした。そのころの祭日は、9月29日で当日は境内で相撲が行われ、その相撲場は今も残っています。
この行事を金王相撲といい、いつごろから始められたか明らかではありませんが、かなり古くから行われていたらしく、近郷はもちろん、江戸の町からも見物人が集まり、凶年などには休業しようとしても見物人が集まるので、やむなく興行したといいます。
ここで相撲をとったのは、本職の江戸の力士ばかりではなく、近郷の若者も大勢参加し、江戸時代の村のレクリエーションの場となっていました。(渋谷区教育委員会掲示より)

紙本著色氷川大明神并宝泉寺縁起絵

渋谷氷川神社に伝えられてきたこの絵巻は、かつての下渋谷村・下豊沢村の鎮守であった氷川神社と、その別当寺であった宝泉寺の縁起を記したものです。
慶長10年(1605)9月賢者円謹誌と書かれてあり、都内の史料としても最古に属し、また、その絵は桃山美術の影響が見られます。
氷川神社は区内でも最古に属するといわれており、地域史料としても価値のあるものです。(渋谷区教育委員会)

渋谷氷川神社の周辺図