荏原神社|品川区北品川の神社

猫の足あとによる東京都寺社案内

荏原神社|元准勅祭社、旧郷社、東海七福神の恵比寿神

荏原神社の概要

荏原神社は、品川区北品川にある神社です。荏原神社は、和銅2年(709)9月9日、奈良丹生川上神社より高麗神(龍神)を勧請し、枝郷三ッ木の地(貴船神社の地)に創建したといいます。長元2年(1029)に神明宮、宝治元年(1247)に牛頭天王を勧請し、古くから品川の龍神さまとして親しまれ、貴船社、貴船大明神、品川大明神と呼ばれ、江戸時代には2石5斗(5石を品川神社と折半)の御朱印状を受領、明治時代には准勅祭社の一社に指定されていました。

荏原神社
荏原神社の概要
社号 荏原神社
祭神 高龍神
配祀 天照皇大神、須佐男之神、豊受姫之命、手力雄之神、大鳥大神、恵比寿神
末社 伊邪那岐命、伊邪那美命、稲荷大神、応神天皇、徳川家康公、白山姫命、大国主命、木花開那姫命、市杵嶋姫命
住所 品川区北品川2-30-28
備考 准勅祭社、郷社、東海七福神の恵比寿神


※御朱印はいけみずさんより寄贈


荏原神社の由緒

荏原神社は、和銅2年(709)9月9日、奈良丹生川上神社より高麗神(龍神)を勧請し、枝郷三ッ木の地(貴船神社の地)に創建したといいます。長元2年(1029)に神明宮、宝治元年(1247)に牛頭天王を勧請し、古くから品川の龍神さまとして親しまれ、貴船社、貴船大明神、品川大明神と呼ばれ、江戸時代には2石5斗(5石を品川神社と折半)の御朱印状を受領、明治時代には准勅祭社の一社に指定されていました。

「品川区の文化財」による荏原神社の由緒

南品川の鎮守である。社伝によれば、和銅2年(709)9月9日、藤原伊勢人が、武蔵国荏原郡荏原川(目黒川)のほとりに勧請して当所の鎮守となした。一説には天長年間のこととも云、此神は大和国丹生神社と御同体で祈雨止雨の守護神である。当社の旧地は枝郷三ッ木の地であるとも伝えており、現在旧地に貴船神社がある。
康平5年6月19日、源頼義、義家両朝臣が、勅命により陸奥の安倍貞任、宗任を征伐の為、下向の節、武蔵国府総社六所宮(府中市大国魂神社)に祈願し、又当社にも参詣し、社頭の海浜に身を浄め、一心に祈願奉幣して出陣した。勝利を治めて無事帰途の際に六所宮ならびに当社に御礼を奉幣された。
此吉例によって、以来総社の大祭である5月5日の前、4月30日に神主社家一同が神馬をひきいて当社に来たり、社頭の浜に各自が身を浄め、塩水を汲み取って持ち帰り、5月5日までの間毎日潔斉し5日の祭典を奉祀するのを管領とする様になった。
天正18年徳川家康関東に下向の節当社に立寄り、由緒故実等を尋ねられた。
当時の神主鈴木正根が参上し、由緒等を差出した処、古社であることによって左文字の太刀一振りを納められた。ついで翌19年11月神主正根が召出され、家康より5石の朱印状を賜った。以来代々この将軍より判状を受けてきたのであるが、途中北の稲荷社(品川神社)との間で争論が起こり、結果としては二分して2石5斗づつに分割されるようになったのである。(「品川区の文化財」より)

東京都神社名鑑による荏原神社の由緒

創建は元明天皇の和銅二年(七〇九)九月九日藤原伊勢人の勧請により、武蔵国荏原郡品川郷(元枝郷三ツ木)に鎮座した。貴布禰大明神と号し、品川総鎮守だったが、後、現在地に遷った。御祭神高麗神は龍神にして雨水をつかさどり、祈雨止雨福徳円満の御神徳と仰がれている。後冷泉天皇の康平五年(一〇六二)源頼義・義家が安部貞任・宗任を征伐する時に、当神社に参詣し品川の海中に身を浄め祈願して戦勝凱旋の折奉幣された。天正十八年(一五九一)徳川家康公関東下向の折、当社に寄られ神官鈴木和泉守に由緒を尋ねられ、左文字一振を奉納され、翌年神領五石を寄進された。慶長十九年秀忠公大阪出陣の折も勝利を祈願され、左文字一腰、鞍一口を奉納した。明治元年十月十二日明治天皇御遷都の際、当神社が内待所奉考所となり、翌二年三月二十七年明治天皇御再幸の節も内待所奉安所・御行宮にあてられた。明治五年皇太后宮東京に御入輦の際も明治天皇の御休殿にあてられた。当神社は創建より貴布禰大明神と称したが、明治四年南品川神社と改称し、同八年荏原神社と改める。(東京都神社名鑑より)


荏原神社所蔵の文化財

  • 品川拍子(荏原神社中心の地域)(品川区指定文化財)

荏原神社の周辺図


参考資料