臨海山法禅寺|東海三十三観音霊場
法禅寺の概要
浄土宗寺院の法禅寺は、臨海山遍照院と号します。法禅寺は、法禅寺は、明徳元年(1390)に言譽定賢が創建したといいます。東海三十三観音霊場31番札所です。
山号 | 臨海山 |
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院号 | 遍照院 |
寺号 | 法禅寺 |
住所 | 品川区北品川2-2-14 |
本尊 | 阿弥陀坐像 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 東海三十三観音霊場31番札所 |
法禅寺の縁起
法禅寺は、明徳元年(1390)に言譽定賢が創建したといいます。
「品川区の文化財」による法禅寺の縁起
寺伝によれば、明徳元年(1390)に開山言誉上人が没してから、それ以前は草庵であったものと思われる。以後時代が下って宝永年間(1704-1710)十三世一誉上人の代に寺院として内外共に充実したものであろう。これは宝永4年(1707)付の知恩院43世応誉上人授与の文書にも「法禅寺奉安置元祖円光大師者即大師自彫之霊像及墨跡大字宝号也…」「東照神宮及び桂昌院殿帰依不浅之意趣…」とみえ、本山に認証を求めたりして寺の由緒、格式を高めようとしているところなどにもうかがわれるのである。(「品川区の文化財」より)
新編武蔵風土記稿による法禅寺の縁起
(北品川宿)法禅寺
除地七段八畝二十七歩、養願寺の北隣歩行新宿一町目の西側にあり、浄土宗芝増上寺末隣海山遍照院と號す、明徳元年言譽定賢起立し、茲年九月十三日寂す、本尊阿弥陀坐像長七尺、又圓光大師自作の坐像あり、長二尺、昔は表通海道に傍て二段四畝の地に門前町屋ありしが、享保七年歩行新宿に収入して其名廃し、境内に古碑四基あり、文保二年六月二十九日、建武五年、暦應三年、暦應四年四月二十一日の年月を彫刻せり。
寺寳
弥陀名號一軸。圓光大師筆、厨子戸帳の類は元禄十五年桂昌院殿の御寄附にて葵の御紋付。
観音堂。観音は桂昌院殿の賜物なり、當時尼公の仰に依て本尊圓光大師彫像を御覧に入、返し給ふ、時に此賜ありしと、立像長二尺。
塔頭貞樹院。門を入て左にあり、本尊弥陀長二尺。(新編武蔵風土記稿より)
法禅寺所蔵の文化財
- 法禅寺板碑121点
- 阿弥陀如来坐像
- 法然上人坐像
- 紙本着色地獄変相図1幅
- 紙本着色釈尊誕生変相図1幅
- 法禅寺板木・銅版
- 流民叢塚碑(品川区指定史跡)
法禅寺板碑 板碑は、鎌倉時代から戦国時代にかけて造られた石造の供養塔で、関東を中心に広く分布している。石材は、関東では主として秩父産の緑泥片岩(青石)が使われている。
当寺の板碑は、品川御殿山から出土したものの一部で、破片を含めて総数121基がある。最も古いのは徳冶3年(1308)、最も新しいのは延徳2年(1490)の銘が確認される。これらは、幕末の品川台場の築造の折りに、御殿山の土取場から宝篋印塔・五輪塔とともに出土したもので、遺墳碑はその時の由来を記している。
一ヵ所からこれほど大量に出土して保管されている例は、大田区の鵜の木光明寺とともに珍しく、大変貴重である。
法禅寺板碑のうち、宝徳4年(1452)銘の阿弥陀三尊種子を刻んだ板碑を品川区立品川歴史館で常設展示しています。(品川区教育委員会)
流民叢塚碑
この碑は、天保の大飢饉でなくなった人たちを祀る供養塔である。
天保4年(1833)に始まった天候不順は、その後数年におよび、多数の餓死者を出した。
品川宿には、農村などから流浪してくる者が多く、この附近で病や飢餓でたおれる人が891人を数えるに至った。これらの死者は法禅寺と海蔵寺に葬られた。本寺には五百余人が埋葬されたという。
初めは円墳状の塚で、この塚の上に、明治4年(1871)に造立の流民叢塚碑が建てられていた。昭和9年に境内が整備された折、同じ場所にコンクリート製の納骨堂が建てられ、上にこの碑が置かれた。
碑の正面には、当時の惨状が刻まれており、天保の飢饉の悲惨さを伝えるとともに、名もない庶民の存在を伝えている。(品川区教育委員会)
法禅寺の周辺図